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「ガラパゴス」状態の日本のデモが犯罪者の「逃げ切り」を許す [社会]

暴政に対する市民の反応が外国に比べて鈍く、デモなどもほとんど起こらないか、小規模で、しかもおとなしい。だから政治への影響力もほとんどない。そういう意味で日本は「ガラパゴス」状態と言える。そしてそのことを実は一般の(活動家ではない)人が自覚している。というのは、安倍内閣のデタラメさが話題になると、「外国だったら暴動になる」というような反応も珍しくないからだ。「暴動」だからデモやストライキを指してはいないが、「本格的な」デモやストライキを知らない一般の人の、暴政への市民の(自分も含めた)反応が鈍いことへの不満の表現だろう。むしろ「ガラパゴス」の自覚が少ないのは活動家や運動圏の方かも知れない。

デモや集会を大規模に開いてもメディアが伝えない、伝えないからほとんどの人がその事実を知らない、そのため新たに呼びかけても、前に参加した人も無力感が蓄積し、人数も増えない。また、組合や政党も、まるで「動員」は悪でもあるかのように思うのか、人集めの組織的な努力はしない。(動員は選挙集会など「身内」の活動に限られる。)このような悪循環が、民主主義の重要な要素の一つであるデモや集会が日本では力を持たない、影響力を持たないという状態を作り出している。

その要因を考えてみると、一つには、日本には普通選挙の制度が確立しており、デモで政権を倒したり、政策を返させるという現象は「先進国」以外の話、「遅れた」国の話だと思っている人が多いのかも知れない。二つ目には、日本人の国民性は「おとなしく従順」だから、激しいデモは一般に受け入れられないというような思い込みもあるだろう。

しかしフランスのような民主主義国でも、「黄色いベスト」運動が燃料税を撤回させた。他の西ヨーロッパ諸国や米国でも大規模デモは政治シーンに大きな影響を与えている。選挙が重要な要素であることは言うまでもないが、富が偏在し、したがってプロパガンダ力も偏在する社会において、対抗勢力はこれを補う手段を持たなければならない。さもなれけば、著しく不公平なメディア状況の中で行われる選挙において、メディア空間での少数派に勝ち目はほとんどない。この状況を説明する、昨年の平和学会・九州地区研究会で発表した図式を再掲する[1]。
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日本が民主主義国かという点でも大いに疑問がある。何れにせよこれは程度問題だが、「桜を見る会」をめぐって総理大臣のあれほどの見え透いた嘘が、しかも公選法に触れるような事実に関する嘘がまかり通っているのに、司法が動く気配すらないということは、むしろ日本が半ば独裁国家に近づきつつあることを意味するだろう。

二つ目の、「おとなしい国民性」という点では、私はこれはむしろ集団自己暗示だと思うし、ブログでも力説している。日本でもかつては、安保闘争のようにおとなしくないデモはあった。遡れば、江戸時代の百姓一揆は3,000件を超え、私のホームタウン久留米市でも、1754年の宝暦一揆(久留米藩大一揆、フランス革命の35年も前)では6万もの百姓が決起して人頭税を撤回させている[2]。

安倍内閣の「逃げ切り」を許さないためには、野党やメディアの力に頼るだけではダメで、市民一人一人が立ち上がらなければならない。それを効果的に組織する責任があるのは運動圏のリーダーたちだ。もし某中学校校長のように「憲法より礼儀が大事」[3]と考えるのでなければ、実社会に影響するような戦術をとることで、メディア露出を実現し、それによって多くの人の参加を動機づけるようにすべきだ。もちろん、あくまで非暴力の形態で(NVDA - Non Violent Direct Action)。

人間集団もいわば原子炉と同じで、核燃料の「臨界量」に相当するような人数が集まって初めて連鎖反応に点火する。つまり、さらに多くの人を惹きつけ、パワーを獲得する。「実社会に影響する」とは例えば、デモ隊が道路を占拠して交通を一時的に止めることだ。それ自体が何かの政治課題の解決に直結する訳ではもちろんないが、力を誇示できたことで参加者自身をエンパワーする効果が大きい。(これを「自己満足」などと蔑んではいけない。「エンパワーメント」と言い換えれば、むしろ運動の重要な要素だ。)祭りで道路を占拠するのと同じである。香港の若者たちの行動でこれを理解した人も多いのではないか。最近の日本でも、限られた規模ではあったが、2015年の戦争法国会の時の横浜公聴会前の道路で見られた[4]。この時の新聞報道が好意的であったことにも注目すべきだ。

先日、日本史の研究者と同席する機会があり、一揆の研究者が数十年前から皆無に近いということを聞いた。一揆は封建時代における民衆の抵抗とパワーの最大の表現だろうから、この研究が数十年間も無いということは、これに関する知識の源泉に日本人は目を瞑っていたに等しい。学問は文化の重要な源泉のひとつであり、演劇や小説などにも大きな影響を与えただろう。つまり、日本人は何十年にもわたって、民衆の集団的パワーに材料をとった作品に接する機会もほとんどなかったということを意味するだろう。作家の帚木蓬生は、吉川英治文学賞受賞の時の記者インタビューで「庶民書かない作家への腹立たしさ」に憤慨した[5]。そしてこの「一揆」の文化と伝統の途絶は当然、民衆運動にも、運動圏や活動家にも影響したはずだ。その代わりに絶大な影響力を誇ったのが、松下電器が作ったイデオロギー装置としての「道徳ポルノ」、水戸黄門ドラマである。(赤旗までがこれの提灯持ちをしている[6]。)

結論:運動圏は、大規模なデモでは逮捕のリスクを冒してでもNVDAの領域に進出し、世間のデモに対する相場観を変えることが大事だ。

[1]発表全文は次のブログ記事に転載.
https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2018-11-20#socmec
[2]弊ブログ記事「『日本人はおとなしい』という集団的自己暗示からの離脱を」参照.
https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2019-03-25
[3]さいたま市立指扇中学校・新井敬二郎校長.埼玉新聞,2015年8月1日付.
https://twitter.com/waka929/status/627280281003651072
[4]弊ブログ記事「地方公聴会での『横浜ゲート』は市民運動の歴史を作った」参照.
https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2015-09-21
[5]zakzak, 2018.5.14日付.「帚木蓬生さん、歴史小説の執筆動機は『庶民書かない作家への腹立たしさ』」
https://www.zakzak.co.jp/lif/news/180514/lif1805140008-n3.html
[6]例えば2年前のブログ記事「『道徳ポルノ』再来を持ち上げる赤旗」参照.
https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2017-09-12-1

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H.satou

団塊世代で学生時代を過ごした者として、あの時代の学生運動の結果としてなにがのこっているだろう。
 九大の学生は卒業を目の前にして、それまで九大全共闘で戦っていた者も、雪崩を打って就職活動にのめり込んで、東京の複数の会社の入社試験を受けるために上京して、旅費の重複受領で大学から警告文が出たほどである。
 でも、全共闘運動を経験した人間が社会の中心となったときには、社会も変わるだろうと思ったけど、かえって戦前逆戻りのような時代になってしまった。
 結局民主主義など言うものは、毛の無い猿みたいな日本人には豚に真珠で、根付くはずが無い。

by H.satou (2019-12-06 18:04) 

yamamoto

老境にあり時間もある団塊世代が再度決起する(その0.3%ほど)ことでもかなりインパクトがあると思います。逮捕されてもクビになる心配もないし、まさか年金まで止められるには、相当法制上のバリアーもあるでしょう。
by yamamoto (2019-12-06 21:56) 

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