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「『ガラパゴス』状態の日本のデモが暴政継続を許す」と題するエッセイを「反戦情報」誌に [社会]

hansenjoho437w500.jpg6/9 末尾にリンク増強。5/16追記:全文転載しました。
1401577.gif5/22追記:内外の著名な2人の方から好評価をいただきました。
英語バージョンは全文公開しています。
A4・2段組の全文PDF(印刷向け)
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「『ガラパゴス』状態の日本のデモが暴政継続を許す」と題するエッセイを「反戦情報」に複数回に分けて掲載します。1回目の掲載号は2月15日発行されました。

おそらく3回分割になりそうで、月刊なので終わるのは2ヶ月後、そこで各節の見出し、関連ブログ記事にリンクします。

「ガラパゴス」状態の日本のデモが暴政継続を許す
    [初回『反戦情報』2021年2月15日号、完結 同4月15日号]
       目次
 はじめに
 長く続く「暴政」
「資本−メディア−権力」の支配のトライアングル
 労働の価値と税の不可視化
 メディアと教育の支配
「日本人はおとなしい」という集団自己暗示
 逮捕の問題
 変化を起こすには

(関連ブログ記事)内容は、以下の記事を統合したようなものです。(+α) 「ガラパゴス」状態の日本のデモが犯罪者の「逃げ切り」を許す平和研究集会での発表から「日本人はおとなしい」という集団的自己暗示からの離脱を地方公聴会での『横浜ゲート』は市民運動の歴史を作った」世界は非暴力直接行動のモードへ民主主義を補完するものとしての直接行動マイケル・ランドル氏にこそノーベル平和賞を戦争法案の強行採決を阻止するには(再掲)バンブー・ブロックは大成功(孟宗竹を使った基地ゲート封鎖)市民が逮捕を恐れなくなれば,権力は市民を恐れるポスト・トゥルース,ポスト・デモクラシーの時代の「表現の自由」

文中のリンク先のほとんどは、このブログの関連記事です。
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「ガラパゴス」状態の日本のデモが暴政継続を許す
    (その1)
          [『反戦情報』2021年2月15日号掲載]
はじめに
本稿の目的は、社会運動における「非暴力直接行動」の必要性と、民主主義実現のためにはこれが不可欠でさえあることを論ずることである。この行動形態は、沖縄の新基地建設阻止行動などですでに採用されてはいるが、しかし運動圏において一般的に広く承認されたものとは言えない。「過激」とか「違法」というような受け取り方も少なからずあるだろう。このような運動圏の「世論」の現状に置いて、このことを説得力を持って論ずるには多面的な議論が必要であり、目的はシンプルであるにも関わらず、相当な文字数を要するのはやむを得ない。このことの理解なしには、真に民主主義を実現することも、従って大きな社会変革を成し遂げることも困難だと思っている。

筆者は国立大学の元教員だが社会科学系ではなく専門は物理学なので、このようなことを語る能力について疑問を持たれるかも知れない。しかし同時に筆者は平和運動の活動家でもあり、2007年にはイギリスの核兵器基地ゲートの座り込み封鎖に2度にわたって参加し、同国の留置場も経験した。2015年と16年には、沖縄の辺野古と高江の座り込みに参加した。また、2003年の国立大学の「法人化」を巡っては、この政策が大学自治を弱め官僚統制に向かわせ、また予算削減にもつながるとして反対運動に加わり、そのセンターとしての「独法化反対全国ネットワーク」の事務局長を務めた。古くは70年前後の学生運動から、またその後の原発問題を含む様々な社会運動への関わりの経験も含め、民主主義を真に実現する方法について考える機会に多く恵まれた。

このエッセイはこのような来歴を通じて得られた知識や経験に基づくものである。一般読者はもとより、社会科学系の専門家や社会運動家の方々からも批評などをいただければ有り難い。

長く続く「暴政」
長い安倍政権では、国会での虚偽答弁、文書改ざんの不正など、次から次に政府や安倍氏本人の不正行為、不正疑惑が数えられないほど続いた。菅政権に代わった後も早速、学術会議会員の任命拒否という、学問界の人事に介入する事件を起こした。「スピン」という言葉があるが、これは都合の悪い事実や事件から人々の目をそらすために、新たにセンセーショナルなことを起こしてメディアをそれで飽和させるというものだ。安倍−菅政権においては、新たな疑惑やスキャンダルが過去のスキャンダルの「スピン」の役割を担うという、全く異常な状態が続いている。今回の学術会議への人事介入は重大問題だが、実際これによって直前の「ジャパンライフ」事件がすっかり霞んでしまった。最近の、新型コロナのパンデミックに対してその拡大を放置、ないしむしろ「GO TOキャンペーン」のようにこれを煽るかのような政策も、これらの以前の不正行為に国民の目が行かないようにするためではないか、そう疑いたくなるほどの無策ぶりである。

安倍政権の暴政は不正やスキャンダルだけではない。国民の生活、困窮を顧みない政府の姿勢は、消費税値上げなど普通の市民の懐への攻撃はもちろん、子供の貧困率13.5%という高さ(厚労省の2019年国民生活基礎調査)、2割程度と言われる生活保護の捕捉率の放置などにも表れており、貧しい人たちをひどく痛めつけている。新型コロナ対策でも、「PCR検査抑制」という世界的にも異常な政策を取り、封じ込めに失敗している。

しかしこれに対する市民の反応が外国に比べて鈍く、デモなどもほとんど起こらない。いや起こってはいるが小規模で、しかもおとなしい。だから政治への影響力もほとんどない。対して海外では、最近のベラルーシはもちろん、1昨年4月に平和的なデモで大統領を退陣に追い込んだアルジェリアなど、デモが政治に影響を及ぼしている例は数多い。民主主義の先進国とされている国でも、アメリカのBLM運動、燃料税を撤回させたフランスの「黄色いベスト」運動など、大規模デモは政治シーンに大きな影響を与えている。それがほとんど見られないという意味で日本は「ガラパゴス」状態と言える。そしてそのことを実はむしろ活動家ではない一般の人が自覚している。というのは、安倍・菅内閣のデタラメさが話題になると、「外国だったら暴動になる」というような反応も決して珍しくないからだ。「暴動」だからデモやストライキを指してはいないが、「本格的な」デモやストライキを身近に知らない一般の人の、暴政への市民の反応が鈍いことへの不満の表現だろう。むしろ「ガラパゴス」の自覚が少ないのは活動家や運動圏の方かも知れない。

デモや集会を大規模に開いてもメディアが伝えない、伝えないからほとんどの人がその事実を知らない、そのため新たに呼びかけても、前に参加した人も無力感が蓄積し、人数も増えない。また、組合や政党も、まるで「動員」は悪でもあるかのように思うのか、人集めの組織的な努力が弱い。(動員は選挙集会などそれぞれの党派内の「身内」の活動に限られる。)このような悪循環が、民主主義の重要な要素の一つであるデモや集会が日本では力を持たない、影響力を持たないという状態を作り出している。

その要因を考えてみると、一つには、日本には普通選挙の制度が確立しており、デモで政権を倒したり、政策を変えさせるという現象は「先進国」以外の「遅れた」国の話だと思っている人が多いのかも知れない。二つ目には、日本人の国民性は「おとなしく従順」だから、激しいデモは一般に受け入れられないというような思い込みもあるだろう。

しかし上のように先進民主主義国でもデモは政治において大きなウェイトを持っている。選挙が重要な要素であることは言うまでもないが、富が偏在し、したがってプロパガンダのための資力も偏在する社会において、対抗勢力は、いわばその制度的な劣勢を補う手段を持たなければならない。さもなれけば、著しく不公平なメディア状況の中で行われる選挙において、メディア空間での少数派に勝ち目はほとんどない。

日本が民主主義国かという点でも大いに疑問がある。「桜を見る会」をめぐって総理大臣のあれほどの見え透いた嘘が、しかも公選法に触れるような事実に関する嘘がまかり通っているのに、司法がほとんど機能しないということは、むしろ日本が半ば独裁国家に近づきつつあることを意味するだろう。

二つ目の、「おとなしい国民性」という点だが、これはむしろ集団的自己暗示だと思われる。日本でもかつては、安保闘争のようにおとなしくないデモはあった。遡れば、江戸時代の百姓一揆は3,000件を超え、私のホームタウンの久留米市でも、1754年の宝暦一揆(久留米藩大一揆、フランス革命の35年も前)では6万もの百姓が決起して人頭税を撤回させている。ちなみに消費税は国民全員に課されるという意味で一種の人頭税である。

以下で、現在の民衆の支配メカニズムの私なりの理解と、それを突き崩して民主主義を実質的に回復、実現していくための「非暴力直接行動」の重要性と、それが運動圏において軽視されている問題について述べたいと思う。

(その2)(『反戦情報』2021年3月15日号掲載)
「資本−メディア−権力」の支配のトライアングル
日本は民主主義国家、つまり民意によって政治が行われるというタテマエになっている。現実にこれが額面通り行われていると思う人は少数かも知れないが、「大筋では」実現している、と信じている人は多いかもしれない。つまり「国民が選挙で選んだ結果だから」、「止むを得ない」という受け止め方である。問題は、選挙など重要な国民の政治行動において、公平で実際的な情報が行き渡っているかどうかということだ。それなしには国民が選挙などで正確な判断はできない。

言論の自由、報道の自由、そして放送法の「公平原則」というタテマエにも関わらず、テレビや新聞などのマスメディアが決して公平でもなく、また国民の政治的判断のために十分な情報を提供しているわけでもない。現実はこの理想からほど遠いどころか、むしろ日本社会の支配層のためにメディアが組織的に動員されているというのが実態だと思われる。その傾向は、メディア支配を重視した長期の安倍政権によって決定的になった。それは、国際NGO「国境なき記者団」が昨年4月に発表した2020年の「報道の自由度ランキング」が、調査対象の180カ国・地域のうち日本が66位まで低下したことにも反映しているだろう[1]。(もちろん、大手メディアの中にも、報道の自由のために奮闘している多くのジャーナリストがいることを過小評価するものではないし、私自身、多くの優れた記事やテレビ番組からしばしば貴重な情報を得ている。)

また、国民が、文字どおり国政の「主権者」として、政治について十分に調べ、考え、そして行動する時間的余裕を与えられているかどうかという問題もある。非正規労働者の増加や賃金低下などで生活不安が高まり、また日本特有の長時間労働も相俟って人々は日々の生活に追われている。政治について考え、調べる余裕もないという人たちも多くなっているだろう。そのような中では、政策や政権を全体的に分析することなく、「携帯料金の値下げ」というような単に分かりやすいスローガンにつられやすい。

このような状況下に置かれた国民は自分の本来の利益を代表する政治勢力を見分けることができにくくなり、また、ありがちな、そして時としてメディアによって補強される「無力感」も手伝って棄権したり、メディアが多数派と暗黙に指示する投票先に誘導される。これによって支配的体制がそのまま維持される。いわば現体制が何重にも安定化され、「ロック」される。

この状況の経済的側面を、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ教授は1昨年の論文「仕組まれた経済 格差拡大の理由」[2]の中で「金力と政治力のフィードバック」という言葉で、おカネが政策に影響を及ぼし、経済的不平等が政治的不平等に転換される、またその逆の道筋を、そしてその「安定化」つまり固定化の仕組みを説明している。また古くは1949年に物理学者アインシュタインが、アメリカの左翼月刊誌 Monthly Reviewの創刊号で、メディアの役割も含めて次のようにこの様子を描いている。[3]
私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。(中略)この過程の結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。立法院の議員は政党が選択するが、その政党は私的資本から財政的その他の援助・影響を受けていて、一方私的資本には選挙民を立法院からなるべく隔離しておこうと考える実際的な理由がある。その結果、市民の代表は特権を持っていない人々の利益を十分には守らない。さらに現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。
「ラジオ」をテレビやインターネットと言い換えるだけで、全く今日の状況を言い表していると思えるほどだ。

この「安定状態」のメカニズムを私なりに図式化してみた。資本−メディア−政府権力のトライアングルによる民衆支配と、その安定化のシステムを示すダイアグラムである。→カラー版
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私たち労働者市民の多くが資本家の下で働き、賃金を受け取る。政府には税金を払う。財貨が資本と政府に蓄えられ、その資本によって政府は買収され、メディアも買収され、政府はメディアを支配し、あるいは教育機関を支配し、メディアは我々に重要な情報は隠蔽しまたその目的でいろんな雑音を流す。主な役割はプロパガンダになる。教育機関は私たちの子どもたちに対して「おとなしくしなさい」という教育する。

資本による政府の買収は主に政治献金や裏金という合法・非合法な賄賂で、メディアの買収・支配は大手広告代理店を通じた広告料や、各放送局の「番組審議会」を通じて行われる。

このサイクルの「燃料」はお金で、それによってこのフィードバック・ループが回る。フィードバックというのは出力が入力にまわり込んでもう一回出力になる、それをくり返すと言うことで、わかりやすい例はマイクのハウリングだ。マイクをスピーカーに近づけると、スピーカーからの音がマイクに入ってそれがアンプで増幅されてまたマイクに入る。そして「ピー」と言う音がアンプの最大出力で鳴り続ける。それが「安定状態」となってしまってどうにもならない。スイッチを切るか、マイクを遠ざけるかしなければならない。社会がそういう状態に陥ってしまっているわけである。

このサイクルの燃料である労働と財貨が支配的権力機構に集約される様子をグレーの矢印の太さとして表現している。つまり税と労働力として資本家や国家に移転したものが、その対価が賃金や公共サービスとして、等価な量としては国民に返って来ていなくて、その「差額」、つまり搾取と収奪とがこのサイクルの燃料になる。

労働の価値と税の不可視化
まずこの「燃料」の調達が、つまり国民からの労働と財貨の正味の移転がなぜうまく作動するのか、その理由を考えてみよう。その最大の原因は、正味の移転があるかどうかが国民にわかりにくく、実感も持てないということにあるだろう。

まず労働の対価としての賃金が妥当な額かどうかという保障も証拠もない。江戸時代の農民の場合と比べるとわかりやすい。当時、労働の成果である米などの農産物の量に影響するのは、自分自身の働きと、気象や天候という自然だけである。もちろん商品として市場に出す部分については複雑な要素も絡むが、少なくとも自給自足であればこれで完結する。さらに税も、年貢としてその生産物の一部を領主に横取りされるので、極めて可視的である。いわば、極めて「透明性」が高い。

これに対して、今日の労働者が受け取る賃金の妥当性を評価する「客観的」な指標は存在しない。資本家にひどく搾取されていても、「経営が苦しいから」とか「グローバルな競争が激しいから」などのレトリックで(たとえ事実でも)、その搾取も不可視化される。税も、賃金の妥当性が分からないので、それから「率」で差し引かれる直接税も、その妥当性も当然曖昧にならざるを得ない。

それでは何が賃金をより妥当な額に導くのか。一つの主要なメカニズムは労働市場の需給関係であろう。労働力不足であれば賃金上昇の圧力となる。しかし失業者が多い状態ではこれは逆に低下圧力となる。そこで重要になるのが、資本家と労働者の間の「力のバランス」であろう。つまり両者の間の「対等な」交渉によって「実験的に」平衡点を探すということだ。労働力市場で働く「見えざる手」とは違って、むしろ人為的なものだ。
この際の重要な前提は、両者が対等であることだが、そのためには労働側の組織化が、そしてその組織が「御用組合」ではないことが不可欠だ。ところが現在、労働組合の力が極端に弱くなっており、あるいは大規模労組の大半が御用組合だ。それどころか組合に入っていない労働者が大半を占める。これでは「力のバランス」は全く機能しない。(その遠因は教育にある。教員のほとんどが組合に入っていないため、当然その社会的意味なども理解していないだろう。それは生徒・学生に決定的に影響する。)

したがって、賃金の妥当性の保障がないだけでなく、労働者側にその(賃金が低すぎるかも知れないという)気付きを得る機会さえも失われている。であれば、そこから引き抜かれる税金の妥当性はさらに抽象的な問題になるだろう。したがって、資本家に対する要求も、税金を持っていく政府に対する要求(レベル)も、抽象的な問題になってしまう。

国公労連の井上伸氏の集計[4]によると、この22年間、OECD諸国の中で日本だけが賃金が下がり続けているとのことであるが、この力のバランスの問題が大きいだろう。この何十年にもわたって、労働者のストライキという言葉すら聞かない。対してヨーロッパでは、NHK-BSでレピートされる外国局のニュースでも度々伝えられるように、ストライキは日常である。この差によるものが大きいだろう。

メディアと教育の支配
トライアングルの右の斜辺、権力からメディアへの作用について考えてみよう。放送は総務省に直接許認可権があり、欧米の独立行政委員会のような制度ではないため、官僚統制に対する歯止めがない。2016年2月8日の国会での、安倍政権・高市大臣の、放送内容の『政治的公平性』に絡め、許認可権をチラつかせての「電波停止」発言はまだ記憶に新しいが、これはメディアへの恫喝として作用しただろう。制度面の問題だけではない。政権のメディア支配は安倍政権になって格段に強まり、管政権はそれを新しい形に「発展」させようとしているように見える。

安倍晋三氏によるメディアへの介入は、2005年に問題が発覚したNHK番組改変事件に遡るが、菅政権はその伝統を受け継ぎ、さらに拡大している。「劇団記者クラブ」と揶揄されるような政権との馴れ合いの官邸会見は、時間や質問数の制限に「進化」した。

安倍政権時代のメディア幹部と首相との会食は2013から15年までの3年間で延べ82回[5]に及び、その結果生じた政権と大手メディアとの「友情」は報道内容に影響したはずだ。たとえば、2015年5月17に沖縄で開かれ、3万人以上も集まった「辺野古基地反対県民大会」をNHKはその夜全く報道しなかったし、1昨年の憲法記念日に東京で開かれた護憲派の憲法集会には過去最大の六万五千人(主催者発表)が集まったが、NHKは事実上これを無視、毎日新聞の記事では10センチ角ほどの豆記事としてマージナライズ(瑣末化)された。一方で芸能人のスキャンダルにはテレビのワイドショーは他の重要ニュースに比べて不釣り合いなほどに時間を割く。

そのメディアの受け手の方はと言えば、社会の貧困化の進行で政治のことを調べたり考えたりする余裕のない人が増え、食事の時に見るテレビのワイドショーや、スマホによるヘッドラインニュースなどが主な情報源になっているのではないだろうか。

資本のメディア支配は、主に番組スポンサーの関係を通じて、そして本来は単なる仲介者のはずの大手広告代理店「電通」によって行われていると推測される。放送番組全体に対しては放送番組審議会がチェック機能を期待されているが(放送法6条「放送番組の適正を図るため、放送番組審議機関を置く」)、その人選は放送事業者に一任されている。そこに一般視聴者の意見を取り入れる制度はないので、これにもスポンサーの意向が反映するだろう。実際、各局の審議会名簿を見ると、その地域の企業家が多数を占めている。

このような権力との関係の他に、日本のメディア界にはジャーナリストの専門養成機関の不足(大学にジャーナリズム学講座が非常に少ない)、従って職に就く時点で専門的知識を持たず、また職に就いてからもジャーナリズム意識を十分に持った記者が少ないという指摘もある[6]。

もちろん以上は全体的な傾向を述べたものであって、このような中にあっても多くの優れたジャーナリストが多方面で奮闘していることは、繰り返しになるが付言する。

教育についても官僚支配の歴史は長い。教育委員会が公選制であったのは戦後のわずか8年間で、1956年に廃止されてすでに70年近くになろうとしている。また、1947年教育基本法の第十条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」としていたが、2006年に第1次安倍内閣で改正され、「国民全体に対し直接に責任を負つて行われる」の語は削除された。しかし憲法23条の「学問の自由」には教育の自由も含まれるとする学説も有力であり、またいやしくも民主主義を称する社会において、国民が教育行政の中心的機関である教育委員会に直接アクセスする道が閉ざされているのは異常である。自分の自治体の教育委員会のメンバーの名前を一人でも挙げられる人が何人いるだろうか?彼らの姿をニユースで目にするのは、学校で不祥事が起こった時に揃って頭を下げているシーンだけだろう。教育委員会をターゲットとする市民運動も、右派の人たちの教科書問題に関するもの以外、ほとんど目立たない。つまり教育委員会は事実上行政支配・官僚支配の下に置かれてしまっている。

「日本人はおとなしい」という集団自己暗示
本稿の主な目的は、社会運動、政治運動における「非暴力直接行動」の重要性を述べることであるが、そのような主張に対する反応の多くは「一般市民の支持を得られない」「おとなしい日本人の国民性に合わない」というものである。そして前者の理由にしばしば後者が挙げられる。しかし「日本人はおとなしい」という評価がどの程度正しいかの客観的な検討はあまり聞いたことはない。

歴史を振り返れば、日本の民衆が過去においては決して「おとなしく」なかったことは、江戸時代を通じて約3,200件を超える「百姓一揆」が起きているという歴史からも明らかだろう。私のホームタウン久留米市でも同様である。同市のいわば「公式歴史書」とも言える「久留米市史」第2巻(久留米市発行、1982年)は、全国的にも有数の規模の一揆と言われる1754年の「宝暦一揆」(久留米藩大一揆)を詳しく記述している。それによれば、有馬藩が新しく打ち出した人頭税「人別銀」に反対する農民が決起した筑後川の河原の集会は、ある文献では6万人もの規模だったという。この一揆と、これを遡る1728年の享保一揆とを題材にした帚木蓬生の小説「天に星 地に花」はこの農民の活動を生き生きと描いている。

このような果敢な先祖に比べて、今日の日本人が「従順でおとなしい」状態にあることは間違いないが、それは決して、いわば生物学的な性質に由来するのではなく、もっぱら文化的なものと言えるだろう。私に言わせれば、そうだと思い込まされている、つまり「集団的自己暗示」によるものだ。

そのための文化装置は時間をかけて綿密に仕組まれている。このような一揆の史実はいくらでもドラマや映画の素材になったはずだが、そのような著名な作品はこれまでほとんど見られなかった。農民の主体性を描いたという意味では黒澤明の「七人の侍」を挙げられるぐらいだろう。そのかわりに数十年にわたって、そして今なお幅を利かせているものの代表が水戸黄門ドラマである。また、テレビの歴史ドラマと言えば、ほとんど全てが権力者の視点からのものばかりで、描かれる民衆は脇役でしかない。

過日、日本史の研究者と同席する機会があり、一揆の研究者が数十年前から皆無に近いということを聞いた。一揆は封建時代における民衆の抵抗とパワーの最大の表現だろうから、この研究が数十年間も低調であるということは、これに関する知識の源泉に日本人は目を瞑っていたに等しい。学問は文化の重要な源泉のひとつであり、演劇や小説などにも大きな影響を与えただろう。つまり、日本人は何十年にもわたって、民衆の集団的パワーに材料をとった作品に接する機会がほとんどなかったということを意味するだろう。上記の帚木蓬生は、吉川英治文学賞受賞の時の記者インタビューで「庶民書かない作家への腹立たしさ」に憤慨した[7]。そしてこの「一揆」の文化と伝統の途絶は当然、民衆運動にも、運動圏や活動家にも影響したはずだ。その代わりに絶大な影響力を誇ったのが前に挙げた、松下電器が作ったイデオロギー装置としての「道徳ポルノ」[8]たる水戸黄門ドラマである(しかも共産党機関紙「しんぶん赤旗」までが何度もこれの提灯持ちをしている)。この文化装置は、「最高権力は善である、最後はお上に頼ればよい」という事大主義のイデオロギーを視聴者の無意識下に注入する。

(その3)(『反戦情報』2021年4月15日号掲載)
逮捕の問題
西欧などの民主主義国の場合、平和的なデモで逮捕されても一晩で釈放されることが多い。実際筆者の経験でも、イギリスの核兵器基地のゲートの封鎖行動の時も、私も含め逮捕された日本チームの全員が1日以内に釈放された[9]。これに対し日本では、警察はなんと最長で23日間も留置できる。実質的な禁固刑で、実生活にも重大な影響を及ぼし、よほどの覚悟がないと逮捕のリスクは受け入れられない。そしてこのことで権力は市民への威嚇の効果を発揮し、市民は「デモ」と呼ぶに値するような社会に影響を及ぼす行動の自由を阻まれている。したがってこのような状況を変えない限り、市民の抵抗や表現形態の多様性やパワーは獲得できない。

そのためにはやはりパイオニア精神が必要で、市民が逮捕を恐れなくなれば権力は初めて市民の力を恐れるだろう。3.11直後に原発反対のデモが盛り上がった時、「デモで社会が変わるのか」という問いへの答えとして柄谷行人氏は「デモをすることで『人がデモをする社会』に変わる」と述べたが[10]、その言い方に倣えば、「人が逮捕を恐れない社会に変わる」ことが重要だ。つまり警察官の命令を「法」と勘違いしている人を減らす必要がある。大規模デモで逮捕者がその数が膨大であればその逮捕者を収容する留置場の確保が困難になる。いわば「みんなで逮捕されれば恐くない」のだ。人々が逮捕を恐れなくなれば、権力は人々を恐れる。実際私が関与したイギリスの反核運動の場合、あまりにも逮捕者が多いためまともに勾留・裁判に回したら司法システムが麻痺するので、逮捕は「キャッチ・アンド・リリース」のゲームになっていた。そのおかげで日本チームの留置も一晩で終わったのだ。

しかし日本ではすぐにそのような状況になることは期待できず、逮捕されれば長期間の拘留は覚悟しなければならない。職を持つ人が通常受け入れられるようなリスクではない。しかし現在、私も含めてかつて「大学闘争」などを経験したベビーブーマーたちが退職し、大量の「自由人」の集団が存在する。家族に介護など保護が必要な人をかかえていないなど、リスクを受け入れられる人たちも少なくないだろう。

道路占拠などは違法行為ではないか、という人がいるだろう。確かにその通りだが、道路の使いみちが交通だけでないことは、祭りの時などには明らかになる。ノーマルな手続きを取らなければ通常は違法だが、必要性、正当性との兼ね合いで判断されるべきだろう。民衆の表現手段として緊急止むを得ない場合もあるのだ。

昨年来の新型コロナのパンデミックの中で、街頭での集団行動は感染の危険が伴うが、同時に「表現の自由」の制限は必要最小限でなければならない。これらを両立させるためには、ソーシャルディスタンス・デモ、つまり大通り一杯に散開して行進する形態が必須である。むしろ、これを「本来の」デモの姿を取り戻す機会にすべきだろう。

非暴力の社会運動における「逮捕」は、しばしば、法律や憲法の解釈をめぐっての、行動する市民と警察官の間の意見の違いによるものである。警察官は外形的事実で判断をせざるを得ないのであって、その警察官の命令を「法」と勘違いしてはならない。最終的には司法が決めることになるので、行動する市民の側も、もし警察に咎められば逃げ隠れしないことが重要だ。たとえ非暴力であっても、直接行動は逆に民主主義への挑戦として悪用もされうる「両刃の剣」であるからだ。

変化を起こすには
上に述べた「トライアングル」による支配構造のロック状態を解除するにはどうすればいいのだろうか。もちろん最終的には選挙によって「真に」国民の利益を代表する議会を作らなければならない。問題は、選挙に集中するだけで選挙に勝てるか、ということだ。筆者の意見では、単に選挙時にキャンペーンをするだけでは勝ち目は少ないというものだ。自民党など支配政党は、上記ダイアグラムの太い破線で示した圧倒的な宣伝力で、日常から明示的・暗示的にプロパガンダを行っているのであり、その形式も言葉によるあからさまな政治的メッセージとして発せられるというよりも、ドラマやワイドショーでのさりげない発話なども含め、文化全体に染み込ませて国民に届けられる。電通などはこれに大きな役割を果たしているだろう。対抗勢力がこれと同じ方法で立ち向かうのは困難で、事実上不可能だろう。

これに対抗しうる民衆の行動形態は、古今東西を問わず「直接行動」である。労働の対価の「公平な」評価の前提である労使の力のバランス、その有効な手段となるのも、組合活動における直接行動すなわちストライキである。一般的な市民運動で集団意思を強く表現するのはデモや集会だが、今の日本のメディアは、たとえ大規模な集会であってもニュースに上げないか、もし扱ったとしてもせいぜい豆記事で、些細なものに分類、つまり「マージナライズ」してしまう。これを、いわば強制的にメディアに乗せるには、大通りを占拠するなどの非暴力の直接行動が必須である。

先に例に挙げた、メディアに事実上黙殺さた2019年5月の東京の6万人規模の護憲集会だが、もしこれを「防災公園」ではなく数寄屋橋交差点を占拠して行っていたら、人目にもついたはずだし、交通にも影響を与えるのでメディアも無視できなかったはずだ。

このような直接行動の効用は、単にメディア露出だけではない。参加者自身の「エンパワーメント」も大きな要素だ。大通りを占拠することで人々は祝祭的な開放感を得る。そのようなイベントがすぐに要求の、たとえ一部でも、実現につながるということはほとんどないだろうが、少なくとも実社会にインパクトを与えたという充実感は残る。そして、直接行動の民主主義における役割を理論化したマイケル・ランドルによると[11]、本来の要求実現に「たとえ成功しなくとも、また部分的にしか成功しない場合でも、集団行動をとる集団内に発生する団結した力は個人や集団の自信と自尊心を増進」 するのである。わかりやすい話が1000人で行進して大通りを占拠し、交通が1時間ストップさせたという一つの達成感である。行儀を偏重する日本の市民運動はこのような行動を毛嫌いするだろうが、それが表現の幅を狭めていることに気づくべきだ。一般の人には無作法と見られるだろうが、同時に集団の決意の強さも伝わるはずである。人々に伝えるべき「メッセージ」は、単に文字で置き換えられるものだけではなく、参加者の決意や覚悟も重要で、逮捕覚悟の行動となればそのメッセージはより強いものとなろう。

これまで、活動家も含め大半の左翼・リベラルもこのような「過激な」行動は市民の支持を得られないと考えていたようだが、実際はそうでもない。原発再稼働反対運動では、2012年6月30日から一昼夜以上にわたって、市民が大飯原発に通じる一本道を封鎖し続け、再稼働に立ち会うために原発に向かった経産省の牧野副大臣は船で迂回せざるを得なかった。2015年の安保法国会の時は、国会前の道路占拠だけでなく、横浜公聴会前の道路では、参加した議員が国会に戻るのを阻止するため市民が道路封鎖した。これらのケースで新聞報道などメディアの扱いが好意的であったことにも注目すべきだ[12]。沖縄では何年にもわたって、通路を塞ぐ形での市民の座り込みによって、基地建設を遅らせ続けている。要するに、「やってしまう」ことで国民の相場観を変えることだ。人々は既成事実に弱い — 良いことにも悪いことにも。

結論として、運動圏は、大規模なデモでは逮捕のリスクを冒してでもNVDAの領域に進出し、世間のデモに対する相場観を変えることが大事だ。それによってデモが真に政治的パワーを獲得し、暴政を止め、ひいては社会の変革につながる。逆に現状を放置すれば、最近のキナ臭い状況を考えれば、最後には戦争にまで行きつくかも知れない。
(終わり)

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[1] 朝日新聞、2020年4月21日付け記事。「報道の自由度、日本66位 『政権批判にSNSで攻撃』」など参照。
[2] ジョセフ・スティグリッツ「仕組まれた経済」、日経サイエンス、2019年5月号。
 →紹介記事
[3] 全文はこちら:https://monthlyreview.org/2009/05/01/why-socialism
 次に日本語訳を全文掲載。http://ad9.org/pegasus/historical/whysocialism.html
[4] 井上伸氏の2020年6月25日のツイート
 https://twitter.com/inoueshin0/status/1276007885617520642
[5] 週刊ポスト2015年6月19日号
[6] 林香里ほか編「テレビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス: 13局男女30人の聞き取り調査か ら」大月書店、2013 年。→紹介記事その1, その2, その3
[7] 夕刊フジzakzak, 2018.5.14日付。
[8] 豊島耕一「『脳内リベラル』からの脱却」、社会評論(小川町企画)139号13ページ、2004年10月
 →→転載
[9] 豊島耕一「12名の日本市民はいかに英国の核基地を封鎖したか」、世界(岩波書店)、2008年1月号。→転載
[10] 柄谷行人「人がデモをする社会」、世界(岩波書店)2012年9月号
[11] マイケル・ランドル「市民的抵抗」p.234、新教出版、2003年。→本の紹介
[12] 横浜公聴会会場前の道路封鎖は2015年9月17日の西日本ほか各紙が好意的に報じた。Japan Timesは1面トップで写真入り →報道の紹介

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