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読書メモ:「ドイツ帝国」が世界を破滅させる [メディア・出版・アート]

1401577.gif2日追記:昨日(2/1)のニュース23に出演したのですね.
http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye2693443.html
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ソ連の崩壊を予言したとされるフランスの人類学者,エマニュエル・トッドのインタビュー集.いろんな雑誌やネットサイトのものが翻訳・編集されて日本で出版.つまりこの本の「原書」というものはないようです.文春新書で昨年(2015年)5月に刊行されています.
センセーショナルな本の表題は,冒頭の章のタイトル「ドイツがヨーロッパ大陸を牛耳る」を“増幅”させたもののようです.

インタビューの期間は2011年11月から2014年8月までにわたり,時間の逆順に編集されています.

移民政策の寛容さや,ファシズム時代の徹底した清算など,一般に評価の高いドイツとメルケル政権ですが,トッド氏によればEUの独裁者という評価です.氏の議論の特徴の一つは,人類学者らしく,ドイツ社会の「性格」に原因の一つを見ているということでしょうか.つまり,ドイツの「子供のうちの一人だけを相続者にする権威主義的な家族システム」という特殊な文化は,その国が支配的なポジションについたときに変調をきたす,というのです.

[1401577.gif追記:その昔フランスの大学にいたとき,女性事務職員が教授を“tu”(きみ)で呼んでいたのにびっくりして,同僚のフランス人教員に「こちらではみんなそうなのか?」と聞いたことがあります.同僚が,フランスではそうだがドイツの大学は違う.もっと権威主義的だ,と答えたのを思い出します.]

権威主義的文化と言う点では,日本も引けを取らないでしょう.いや,もっと上を行っているかも知れません.ドイツを「アンバランスであるがゆえに恐ろしい文化」とも評していますが,そのまま,いやより一層強く日本に当てはまるのではないかと思ったりします.

他にもいろいろと刺激的な,あるいは示唆的なフレーズと思うものを以下に抜き書きします.応援のクリック歓迎

ドイツ人たちは、より弱い者による服従の拒否を受け入れることが非常に不得意だ。そういう服従拒否を自然でない、常軌を逸している、と感じるのである。
フランスでは、事情はむしろ正反対だ。服従の拒否はフランスではポジティブな価値だ。不服従が日常茶飯で、それはフランス的魅力の一つともいえる。というのは、フランスには秩序と効率への不思議な潜在力も存在しているから.(p.69)
政府への貸し付けは、カール・マルクスが見抜いたとおり、富裕層の持つ金の安全化だ。政府債務は民間金融機関の発明なのだ。 緊縮、すなわち「政府債務を立て直す」というやつは、国家を私的利益に奉仕する立場に拘束し、いつの日か不可避的にやらなければならない唯一のことをできないようにすることだ。やらなければならないこととは、借金のデフォルトさ。支払いを拒否することだよ。
私はここで、支配的イデオロギーと真っ向から対立する立場にいる。ユーロという金銭が宗教となり、神となっているこの時代に「考えられないこと」の中にいる。
しかしだね、成長した経済の停滞は、社会構造の上層部に不用な金銭が蓄積されていることによるのだよ。
市場を再活性化し、デモクラシーを再建するためには、メーターをゼロに戻す必要があるんだ。これはもちろん、必要な部分についての話だ。全面的に、というわけではない。(p.131)
しかしドイツは、すでに二度にわたってヨーロッパ大陸を決定的な危機に晒した国であり、人間の非合理性の集積地の一つだ。ドイツの「例外的」に素晴らしい経済的パフォーマンスは、あの国がつねに「例外的」であることの証拠ではないか。
ドイツというのは、計り知れないほどに巨大な文化だが、人間存在の複雑さを視野から失いがちで、アンバランスであるがゆえに恐ろしい文化でもある。(p.143)
対照的にフランスの文化については,次のように述べています.
パリ盆地の家族は直系家族とは正反対の原則の上に形成されていました。結婚適齢期に達した子供は自律的な家族ユニットを築くのが当然とされていたのです。
遺産は男女関係なく子供全員に平等に分け与えられました。このシステムが培った価値は自由と平等です。自由と平等が、フランス共和国の標語となる以前に、暗黙のうちに家族の標語だったわけです。(p.143)
話はドイツに戻ります.
そうした規律と上下関係という価値が浸透しているがゆえに、ドイツでは人びとが競争的なインフレ抑制策を受け容れたのです。個々人をかつては家族に、今日では集団に組み込むそうした価値のおかげで、国全体としての経営戦略を一致協力して合議するほどにまで組織された経営者団体も現れてくることができたのです。アンゲラ・メルケルはたぶん、その利益を代表しているにすぎません。(p.160)
国家とは何かということについては、その両義性を認め、マルキシズムの理に叶った部分に依拠しなければ、現在起こっていることは理解できません。
国家は、一般意志の体現者にもなれば、支配階級の表現にもなるのです。第二次世界大戦後の社会的国家、ドゴール主義の国家は、当時共産党がおこなっていた批判に反して、何よりも一般意志の実現のために行動していました。経済成長をみんなのために管理していました。
今日、国家はその主要な性格から見て、何よりもまず階級国家です。金融資本主義が改めて諸国家をコントロールするようになっています。(p.177)
システムがどんなに不透明に見えても、あるグループがどのようにして富の大きな部分をコントロールしているかを分析すれば、システムの実態に近づくことができます。
そうだとすれば、本質的な問題は、市場自体の問題ではありません。寡頭支配層こそが、そして寡頭支配層が国家との間に持っている関係こそが、本当の問題なのです。したがって、この寡頭支配層を特定し、その構造、その生活様式、その構成を分析する必要があるのです。(p.178)
国ごとに異なる形での寡頭支配 — 左翼が見落としているもの
- それは特定の土地から離れたグループ、10年前にみんなをぎょっとさせていた表現を用いれば、「グローバル化されたエリートたち」のことですか?

それもまた現代が産み出した幻影です。過剰な怪奇です。人びとは、グローバル化した自由経済がトランスナショナルな寡頭支配を生んだと信じ込んでいますね。人類学的な意味における文化という要素を捨象してしまうから、実は幾つもの異なる寡頭支配層があり、その間の関係は仮惜のない力関係によって構造化されているという事実が見えなくなるのです。
フランスの寡頭支配層の特異性は中央官庁上層部との近さにあります。そのメンバーは必ずしも資産家の子女ではないが、しばしばエリートの高等教育機関であるグランゼコールの出身者であり、一般にひどい英語を話し、その生活様態において信じ難いまでに典型的なフランス人で、そして本物の主人たち、つまりアメリカの寡頭支配者たちに騙され続けている。
スタンダード&プアーズ、ムーディーズといった大手格付け会社への服従は、アメリカの寡頭支配層への服従にほかなりません。(p.178-9)
左翼の論客たちも、ヒエラルキーの頂点に平等性があるかのような幻想を培っている。ところが、世界の社会構造の上の方も下の方も、不平等によって特徴づけられているのです。(p.180)
かくして毎年、フランス人は付加価値税と直接税という形で2500億ユーロを持って行かれ、そのうちから500億近くが利子として、すでに過剰にお金を持っている人びとの手に渡るのです。そのうえその人びとの三分の二は外国人です。
なにしろこれはグローバルな浮かれ騒ぎで、富裕なフランス人は最優先の待遇は受けられないとしても、その代償として、諸国家と諸国民の服従をたらふく腹に詰め込むことができるのです。このような現実があるのですよ。
この現実を隠す機能を果たしているのが、底知れぬ債務だの、国の破産の可能性だの、トリプルAを失わないようにする必要性だのを振り回し、人びとを不安に陥れると同時に好んでモラルを説くタイプの言説です。現行システムの論理的でリベラルな外観の背後で、国家が、最富裕層の利益のために人びとから金を脅し取るマシーンになっています。 (p.182)
債務デフォルトは、民主主義的な理想によって国家を再征服する端緒となるでしょう。現状では、国家は金融寡頭支配層によって略奪され、金を脅し取られています。(p.194)
あの国は直系家族、これは子供のうちの一人だけを相続者にする権威主義的な家族システムなのですが、直系家族を中心とするひとつの特殊な文化に基づいています。そこに、ドイツの産業上の効率性、ヨーロッパにおける支配的なポジション、同時にメンタルな硬直性が起因しています。
ドイツは歴史上、支配的なポジションについたときに変調しました。特に第一次世界大戦前、ヴィルヘルム二世の統治下でビスマルク的理性から離れ、ヨーロッパでヘゲモニーを握ったときがそうだった。今日の状況は、ナチス勃興の頃よりも、あのヴィルヘルム時代のほうに類似しています。(p.212)

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バッジ@ネオ・トロツキスト

旧ソ連・東欧の体制の「崩壊予言」と言えば、当方も81、2年頃にすでにしていましたよ。詳言すると当方が誰だか解ってしまうのでここには書けませんが、当方の「予言」には証拠物件も証人も多数存在します。ある雑誌の読者投稿欄とある共産党主催の学習会でのやり取りの証人です。そのことは故・永井潔師にも話したことがあります。

だから、トッド程度の底の浅い「予言」、競馬の予想屋水準の没理論的「予想」が何某の道具立てになるとは思いませんね。
当時は、ミヤケンあたりでさえ「そこに人民の闘いがある限り、生成期社会主義の誤りは正される」などと、階級闘争史観論者らしい甘い願望を公言していた時代でしたから、経済的土台の制約と、それに照応した人格的陶冶の未完を『資本論』にそくして主張した当方の議論は、今振り返ってトッドと比べても、出色なものだったと思います。もっとも、当方の見解は、「崩壊」という巨大な事実がもたらした迷走の中で、集団的に検討されることもなくウヤムヤにされてしまいましたがね。

先生にも、マルクスの「領有法則の転回」論や「生産への科学の充用」記述などを一度熟読熟考されることをお勧めします。
「(科学的)社会主義(の理論、運動、体制)は、資本による生産の社会化に立脚する」(レーニン)しかないことが確信されるでしょうから。

変革主体形成、とりわけ諸個人の実践を導出する価値観や能力の陶冶が、労働の社会化が不可避化させる「資本の自己批判」によって促進される(だから日本社会の到達点もまた、さもありなん)というのが、マルクスの言う「経済的社会構成体の発展の自然史的過程」なのです。
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2016-02-05 10:21) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

主意説に立つトッドも、『資本論』を単なる「資本家論」に矮小化する俗流的資本主義観の枠内の人のようですね。
しかし、国独資論者などが陥る「資本家探し」が資本のシステムに内在する歴史性(歴史的変化・超出の不可避)を等閑視するように、宿命論的・単純地政学的な国民論、民族論では人類史の発展や変革主体形成の問題は解けませんよ。
例え「未完の大著」であったとしても、『資本論』は、資本主義の単なる説明理論などではないのです!(さりとて、「外部注入」のための教材などでもない)

by バッジ@ネオ・トロツキスト (2016-02-05 10:57) 

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