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「寛容さ」は教育の場の大切な要素 [憲法・教育基本法]

根津さん関連の記事をめぐってこの一週間,たいへんなアクセスがありました.今日あたりは少しアクセス数も落ち着いてきたようですが,数日前は何と一日千アクセスを超えており,ブログの主人としては有り難い限りです.お礼を申し上げると同時に,お願いをしたいと思います.できるだけ穏やかな言葉でやりとりをお願いします.さもないと言葉尻の揚げ足取りという,あまり面白くない状況になってしまいますので.そのためには,すぐ反論するのではなく,少しタイムラグを取った方がいいのではないでしょうか.

 さて,以下の文章は根津さん関連記事へのコメントのようなものですが,コメント欄に書き込むには長くなりますので,ここに書くことにしました.

 根津さんへの処分の是非はさておいても,それに対する彼女の抗議という表現行為までを非難・バッシングの対象とするのは,やはりどう考えても,バランスを欠いた,また不寛容な態度としか思えません.彼女は職場を不当に奪われたと抗議しているのですから,そのことを表現するのに最も効果的な場所としては,職場の入り口以上のものはないでしょう.

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 二中父兄さん,「”合法的な表現行為”とやらで、学校の校門に居座って騒ぎを大きくした結果がこれです」(2005-06-22 23:43)と言われますが,これもどちらの立場かで「騒ぎ」の意味や価値は正反対になります.処分が異常なものだという立場からは,異常な事態に社会が「騒ぎ」として反応するのは「正常」なことに見えます.逆の立場からは困ったことに見えるでしょう.

 何人かの方が,「子どもを人質」という言い方で生徒への影響を心配されていますが,だいぶ時間も経ったことですから,どのような影響があったのか具体的に説明していただくとありがたいです.

 寛容さという点に関して言えば,子どもの権利条約はその中にこの言葉を2度(前文と29条)引用し,これを教育と教育の場において重視しています.前文から引用します.

 子どもの権利条約前文
  ・・・・・
  子どもが、十分に社会の中で個人としての生活を送れるように
  すべきでありかつ、国際連合憲章に宣明された理想の精神の下
  で、ならびにとくに平和、尊厳、寛容、自由、平等および連帯
  の精神の下で育てられるべきであることを考慮し、・・・・・・

 日の丸・君が代を,処分によって強制するということは,天皇が園遊会の会話の中で心配を表明されたほどのことで,寛容さとは相容れないと思いますが,さらにその処分に対する抗議へのバッシングとは,繰り返しになりますが,いっそう不寛容な態度に思えます.

 6月19日の投稿で引用された「7枚は明らかに、日の丸・君が代に反対することを鮮明にした資料。これを使ったらそれこそ学習指導要領逸脱だとは思わなかったのか」
http://www.din.or.jp/~okidentt/nezu11saiban.doc
については,この文書の脈絡が分からなかったのでコメントしませんでしたが,この文章を全部読むとだいたい意味が分かりました.何ら不自然なところはありません.上の引用は,相手,つまり校長の立場に立った言葉を使っただけのことです.

 学習指導要領に関してです.これは政府の命令であって,法律ではありません.これを明確に区別しないと「法治国家」の基礎である「法の支配」という根本概念が崩れてしまいます.「命令」は,なにがしかの権限に裏付けられているとはいえ,あくまで人の行為であって,法に根拠を持たなければ無効です.これを法とを同列視すると「人治」に陥るでしょう.また,法律にも構造があり,上位の法と下位の法(もちろん命令も)が矛盾するとき,上位の法を選ばなければなりません.この辺の議論は,4月22日の記事「『起立』する人の責任」の5月15日追記の部分に書きました.
http://blog.so-net.ne.jp/pegasus/2005-04-22-1
根津さんは,まさに「上位の法」,つまり憲法や教育基本法を選ぶという行為をしているのだと思います.

【同日20時20分追記】(コメント欄不調のため)
「二中父兄」さんのコメントへのお返事です.
「国旗、国歌は国民一人一人の中で考えられていくことが望ましい」,まさに正論ですね.(ザ・ニュースペーパーの「大政奉還」のギャグはまだまだパクリできそうです!)処分を背景にこれらの,少なくとも「容認」を,つまり起立,おじぎ,唱うことを求める(これには「強制」という言葉以外に形容詞が見つかりませんが)というのは,まさに「国民一人一人の中で考えられていく」ことを妨げるのではないでしょうか.つまり「考える」余地もなく,自分の地位や生活を守ろうと思えばそれ以外の選択肢が許されない,ということなのですから.
 それとも,天皇は,その尊重を前提に,“なぜそうするのか”を「一人一人の中で考えられていく」のがいい,という意味で言ったのでしょうか?だったら残念.
 子供たちにあまり大きな影響が出ていないというのを聞いてほっとしました.
 「実力阻止」の件はまたそのうち.(もちろん暴力は,言葉の暴力も含め絶対否定です.)


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二中父兄

真面目にコメントして頂いたのに申し訳ないのですが、私は以下の文章を読み、この問題を真面目に考えるのが馬鹿らしくなっています。

http://ww2.tiki.ne.jp/~ui-maki/futekikaku/kokoro2004/06kokoro_tayroi04/kokoro_050528.html
「いっぱい処分裁判原告 根津公子(東京・教員)
~中略~
私のところの校長は「訓告処分だ」と言い渡されているそうです。次に私が不起立すれば降格でしょうね。私は校長に、「申し訳ないけど付き合ってね」と言っています。
~中略~
☆都教委がどんな処分を下してくるか、目下、愉しみに待っています。停職を下さなければ都教委のメンツは保たれないだろうし、しかしそれをしてしまえば次は免職にエスカレートさせねばならないし、今となってはあちらとしては私を会場外に出したいと考えているのではないかな。「3回不起立したら免職」なんて言ってしまうから、墓穴を掘ってしまうのにねえ。私は校長に、「当日病気にもならないし、外の仕事にもあたらないよ」と言ってあります。」

yamamoto さんからすれば「受け取り方の問題」なのでしょうが、私からすると「問題を大きくすることを目的としている」不謹慎な態度としか感じられません。

ご要望にお応えして、具体的に状況をご説明させていただきます。子供達への影響ですが、幸い、今のところ特に問題はないようです。少なくとも、我が家の子供の交流範囲では「わがままな先生」程度の認識しかないようですね。よくよく話しを聞いてみれば、そもそも家庭科の授業は2人1組で、根津さんは補佐役のみで何ら主導的な指導はされていないようです。この点を根津さんが騒ぎ立てないのは不思議ですが「裁判とか講演会とかでしょっちゅう休むから補佐役じゃないと困るよ」とは、我が家の子供の弁。子供達の間で、多少なりとも議論になったと聞いているのは「根津先生に挨拶をするかしないか」だそうです。インターネットを使っている子が「ホームページに"子供達が元気に挨拶してくれる"とか書かれて利用されちゃうよ!」と言ったそうですが、最終的には「登下校も学校生活の一部だよ 学校の中では挨拶をしなくちゃいけないんだよ」との結論になったそうです。
by 二中父兄 (2005-06-25 19:38) 

大阪人

それ相応な知的レベルのご家庭なんですね。
by 大阪人 (2005-06-26 00:04) 

NO NAME

>阪人
いやー、我々もそうありたいものですなー
by NO NAME (2005-06-26 04:25) 

やれやれ

「寛容さ」は教育の場の大切な要素
なのだから、国旗掲揚、国歌斉唱ぐらいは「寛容さ」で何とかしたら?
最初から「寛容さ」で認めていれば、根津さんも低脳サヨクと思われなかっただろうし、処分もされなかったよね。
by やれやれ (2005-06-26 12:37) 

二中父兄

yamamoto さん

「言葉遊びとしては面白いですが」のコメントを、なぜ削除したのですか? 一度、書き込んだコメントを削除するというのは、少々、卑怯ではないでしょうか。我々ゲストは「言い過ぎたかな」と思っても自分の発言を削除できないのですから。内容については追求しませんが、本心で書かれたのだとしたら、かなりの危険思想をお持ちですね・・・
by 二中父兄 (2005-06-26 15:56) 

yamamoto

校長が日の丸君が代を実施することを「実力阻止」まではせずに「寛容」に許容したわけですが,強制するという「不寛容」に対しては闘わざるを得なかったわけです.つまり,寛容さを守るということは不寛容さと闘うということも含むのです.イジメを許す「寛容さ」を寛容さと呼ばず,これと闘わなければならないのと同じです.
by yamamoto (2005-06-26 16:20) 

yamamoto

一旦削除した理由は,礼節を書いた書き込みへの返答という形になっていたためです.ですから冒頭の「言葉遊びとしては面白いですが・・・」は削除することに致します.また,「イジメ」以下は今回付け加えました.はて「危険思想」とは?
by yamamoto (2005-06-26 16:20) 

二中父兄

私の理解が間違っていなければ「実力阻止をするのは当然の権利」だが「寛容」に見逃してやった、と読み取れるのですが正しいですか? もっとも「暴力によって実力阻止」とは書かれていないので、危険思想は言い過ぎだったかもしれません。申し訳ありません。いずれにしても 「実力阻止」となると、当然、相当の騒動が発生する訳で、生徒・保護者にはえらい迷惑ですが、これもまた「受け取り方の問題」で片づけられるのでしょうね。校門の座り込みで野次馬という名の不審者を呼び寄せかねない件といい、変更・扇動教育を行なっても「学習指導要領は法律ではない」で片づけられる件といい、生徒・保護者がこうむる迷惑などというものは、教師の内心の自由を守るためにはささいなものなのでしょうね。

ところで、私は日の丸・君が代・天皇制に関しては肯定も否定もしない(考え続けてはいるのですが、何が正しいのか未だに判断できない)立場ですが、園遊会の発言問題に関しては、あれこれ都合の良いように取り上げられて可哀想だなあと、天皇に同情しています。天皇の最新の発言は以下のものですので、こちらを考慮してあげてくれませんか。
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20050425/20050425a4330.html?C=S
「2005年04月25日(月)
「一人一人の中で考えを」 国旗国歌で天皇陛下

 「国旗、国歌は国民一人一人の中で考えられていくことが望ましい」 天皇陛下は25日の記者会見で、外国人記者による「学校で国歌斉唱と国旗掲揚を強制させることをどう考えているか」との質問にこう答えられた。

陛下は世界各国が国旗や国歌を持っていることを挙げ「国旗や国歌を重んじることを学校で教えることは大切なこと」と指摘。「国を象徴するものと考えられ、それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません」とした。

オリンピックの優勝者が国旗を持ってウイニングランする例にも触れ「選手の喜びの表情の中には、強制された姿はありません」と述べた。」
by 二中父兄 (2005-06-26 18:54) 

yamamoto

またまたコメント欄がダメなので本文に追記します.このように1行ならいいのですが・・・.
by yamamoto (2005-06-26 20:16) 

二中父兄

式典の不起立自体については、あまり関わりたくなかった(先にあげた「都教委がどんな処分を下してくるか、目下、愉しみに待っています。」は論外だと思いますが)のですが yamamoto さんが新たに書かれた "起立,おじぎ,唱うことを求める(これには「強制」という言葉以外に形容詞が見つかりませんが)" を読んでフト思ったことがあるので書きます。教会で行なわれる結婚式では、賛美歌斉唱の際、一同起立が当たり前ですが、これも強制になるのでしょうか。また、親族の結婚式が教会で行なわれ、参列者が「自分は仏教徒だ」と座ったままでいたら、どのように感じられるでしょうか。個人的には、これこそ「不寛容」だと思うのですが。もっとも、私自身は音痴なので立つだけたってボーッとしてますけどね。素直な本音で言えば、現状において、入学式・卒業式に出席するのであれば、とりあえず立つだけ立つのが社会人・大人のとるべき行動だと思うのです。教育委員会にしても、まさか、口をこじ開けてまで「唄え!」と言いますまい(そこまでやられたら私も反対運動に協力しますよ)。式に出席している保護者の大半(私の周囲だけかもしれませんが)が、不起立の教師を見て思う感想は「見苦しい」ただ、これだけですよ。しつこくて申し訳ありませんが「不起立」するために、子供の晴れ舞台に出てくる教師には、不快感を感じるだけであり「寛容」の心なぞ到底もつことはできません。
by 二中父兄 (2005-06-26 21:12) 

yamamoto

結婚式で「不起立」でも処罰はされません.それぞれ人々が何かを感じ,せいぜい悪口を言ったりするぐらいでしょう.ところが,もしこれが,「結婚式での不起立は罰金5千円を科す」というような条例でもできたらどうでしょう.結婚式の雰囲気を返って害するのではないでしょうか.
by yamamoto (2005-06-28 22:38) 

yamamoto

処分を背景に唱うことを要求するのは,「口をこじ開け」るといういかにも野蛮な映像となることはありりませんが,それと同じ,いやむしろそれより陰湿という意味で,よりタチが悪いと思うのです.(長い文がダメなようで2回に)
by yamamoto (2005-06-28 22:39) 

NO NAME

結婚式で「不起立」して、式をぶち壊したら
民法上の責任はあるんじゃないか?
訴え起こされたら負けるんじゃないか?
by NO NAME (2005-06-29 13:25) 

yamamoto

ぶち壊しになるほどの「不起立」というのもあり得るかも知れませんね,でもたかだか民事ですね.権力関係ではない.映画「卒業」のような式場での花嫁奪取なら「ぶち壊し」どころではないでしょうが,それでも刑事罰のようなことはないでしょう.
by yamamoto (2005-06-29 18:18) 

大阪人

憲法上の権利の「実践」をやってどこがわるいんだか。
不起立という「生き方」を教えない方がよっぽど見苦しいと思うが。
by 大阪人 (2005-06-30 00:18) 

靖彦

はじめてコメントさせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。

私は、式典での不起立は、規律を乱す「迷惑」行為だと思いますが、≪彼女の抗議という表現行為≫こそが「惨禍」を垂れ流す行為であり、一番問題視されるべきだと感じます。
(二中父兄様のコメントだと、案ずるより子供達もしっかりされた皆さんで、被害はまだ少ないようなので、とりあえず安心ですが・・。)

処分を不当と思い座り込むのであれば、都教委の建物の前などでやるべきであり、法廷等で堂々と争えば良いのではないでしょうか。
わざわざ校門で座り込みを行う根津氏は、発達段階にある子供達の未熟さを悪用し、レジスタンス的ヒロイズムをアピールしてシンパを得よう、との意図がないと言い切れるのでしょうか?

>最も効果的な場所としては,職場の入り口以上のものはない
とのことですが、顧客不在の工場等ならいざ知らず、ホテル・レストラン・結婚式場や葬儀場等、客にサービスを提供する職場において、労使間の不当な扱いがあったからといって、従業員が施設入り口で座り込みなどすることが許されるでしょうか?
当然客から経営者側に苦情が殺到する(効果絶大)でしょうが、理由の如何に因らず、座り込んだ者は、職場・職務(そのサービスという仕事自体)を冒涜するものとして、皆から厳しく非難されるのは当然であり常識です。「寛容さ」とかの問題ではありません。

国民(生徒・父兄・社会)に対して、「教育」という重要かつ厳粛なサービスを提供する立場にいながら、このような抗議方法を平然と行う根津氏は、「『生徒』は、サービスを提供すべき相手ではなく『製品』で、『学校』は『工場』」であるかのような主観を持っているとしか考えられません。これが「子どもの権利条約」に沿う精神でしょうか?

相手は強大な権力を持ち、こちらは弱者だからゲリラ的手法は当然で、「効果さえ上がれば手段は問わない」という考えは、教師として失格ですし、判官贔屓な私でも到底納得出来ません。 長文にて大変失礼致しました。
by 靖彦 (2005-07-02 02:06) 

大阪人

法廷で争ったら負けるからそれ以外の場所でやっているんでしょうね。
by 大阪人 (2005-07-03 22:44) 

大阪人

靖彦さんの言い分だとストライキは認められないんですか?
by 大阪人 (2005-07-03 22:50) 

靖彦

大阪人 様
折角コメントを返して下さったのに、お返事が遅くなり申し訳ありません。

民間企業の従業員に、正当なストライキを行う権利があることは、勿論否定しません。
私が申し上げているのは、「サービスを提供する施設入り口で座り込みなどすることが、皆から厳しく非難されるのは当然であり常識」ということです。ストが行われる状態をも想定して正確を期すならば、二中と同様に「現にサービスを提供している施設」のことを指します。

私が挙げたようなサービス業は、製造・物流・販売等の他業種と異なり、特に「相応しい雰囲気」が商品の重要な構成要素です。
また影響を受け被害を被るのは、一般客であり、取引先等の業者ではありません。
しかも儀式や会議・宴会等の重要行事は「ここは雰囲気が悪くて駄目だから、別の場所にするか、日を改めよう。」などと、その場で代替が利くものではないからです。
by 靖彦 (2005-07-06 23:00) 

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