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「日本の科学者」4月号掲載の「原水禁運動の分裂について」全文公開 [社会]

掲載の号が旧号になったので,同誌編集委員長の許可を得て全文公開します.
タイトル部分の画像です.
 (関連記事:「原水協と原水禁」, 2019年8月-大量の引用を含む詳細バージョン)
「原水禁世界大会NY」には文中で触れ,また編集部がその広告を挿入しましたが,残念ながらコロナウイルス感染拡大で中止になり,代わりにネット上で4月25日に開かれることになりました.
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「日本の科学者」2020年4月号,56(232)-58(234).

ひろば

原水禁運動の分裂について
─運動圏にも必要な歴史の記録と共有

               豊島耕一
はじめに
昨年の原水禁世界大会・科学者集会は福岡で開かれ,筆者も実行委員として参加した.この催しは原水爆禁止日本協議会(以下,原水協)の「世界大会」の関連イベントとされており,したがってこの集会の様子などを世界大会に報告することになっていた.しかしJSAは本来,原水協とは独立した組織であり,1960年代の原水協と原水爆禁止日本国民会議(以下,原水禁)の分裂にも関与していない.そこで原水協だけでなく原水禁とも平等に付き合うという意味で,原水禁の世界大会でも報告しようと筆者から提案し,実行委員会でも合意された.

筆者が原水禁の大会に参加して報告をする役目になったが,実は実行する段階で少し苦労することになった.分科会でのフロアからの自由発言ということで認められたが,確実ではないので,2ページのレジュメ配布の許可を前もって求めた.集会の開催前なので当然レジュメは作れず,集会内容を知らせるチラシのコピーをファクスで送ったところ,なんと,原水協系のイベントという理由で配布物は断られてしまった.原水協に対する原水禁の不信,反発がいかに根深いかということを実感させられた.政党レベルでは「野党共闘」が常識になりつつあるなか,原水禁運動では「冷戦」が続いていたのだ.

結局は広島大会2日目の「朝鮮半島の非核化と日本」という分科会で発言することができ,配布物もその場で認められた.この経験も何かの因縁と,この対立・不信の原因やその歴史を調べ,記録しておこうと思った.

探索した文献・資料は主に,日本共産党(以下,共産党)の月刊誌『前衛』と日本社会党(以下,社会党)の『月刊社会党』,それに,当事者としての原水協,原水禁のウェブサイトである.

1 原水協,分裂問題の略史
1954年3月1日のビキニ水爆実験で第五福竜丸ほか日本の遠洋漁船が多数被曝したことを契機に,核兵器廃絶を求める署名運動が行われた.翌年8月,広島で「第1回原水爆禁止世界大会」が開催され,この署名運動の実行委員会が原水協に発展した.

日米安保条約や原発問題への対応の違いで,1961年,自由民主党系と民主社会党(後の民社党)系勢力が脱退,民社党系は核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成したのが最初の分裂である.

同じ年の夏の原水禁7回大会の直後に,ソ連が3年間の「モラトリアム」を破って核実験を再開したが,これへの対応をめぐって内部対立が生じた.1963年の第8回大会では社会党・日本労働組合総評議会(総評)系グループが「いかなる国の核実験にも反対」のスローガンと,部分的核実験禁止条約の支持を要求したが,共産党系はこれに反対した.1965年2月には前者のグループは原水禁を結成した.

その後,原水協と原水禁は別々に世界大会を開いていたが,1977年から1985年までは統一して開催された.しかし85年には平和行進で「統一労組懇」の旗を認めるかどうかという問題や,トマホーク集会開催の申し合わせを原水協側が破棄したとされる問題などをめぐって対立が起こり,次の年からは別開催(第二次分裂)となった.

2 60年代の分裂に関する双方の主張について
原水協の公式ウェブサイトの「原水爆禁止運動のあゆみ」[1]には,分裂の問題ではほとんど記述がない.特に85年からの第二次分裂に関しては皆無である.原水協と関係の深かった共産党の主張を見てみよう.それは,当時の副委員長,上田耕一郎氏の『前衛』1962年10月号の論文中の「極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験に対して,ソ連が防衛のための核実験を行うことは当然であり,世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置」[2]という文章に代表されるだろう.

これから22年後1984年の評価でも金子満広氏は,「63年の分裂は,社会党・総評ブロックを軸にして『いかなる国の核実験にも反対』という特定の政治路線」のおしつけでひきおこされたとしている[3].

原水禁のウェブサイトはこの問題について詳しく記述している[4].それによると,「いかなる国の核実験にも反対する」などを基本とした「基調報告」に基づいて大会を「開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた」にもかかわらず,共産党は,大会直前に突然「基調報告」に反対し「(1)平和の敵・アメ帝の打倒,(2)社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する」などと主張し始めた,とある.

この問題が起きる直前の1961年の原水禁7回大会は「最初に実験を開始する政府は平和の敵,人類の敵」と決議しているので,「いかなる国の核実験にも反対」が「特定の政治路線」とする共産党の主張には無理がある.またずっと後の1995年には,当時の委員長の不破哲三氏は「すべての核実験に反対し,核実験全面禁止条約の締結を強く要求する」[5]と発言し,明らかに変化している.この変化については共産党の側の説明を見つけることはできなかった.

3 1985年の分裂について
この第二次の分裂については,ウェブ上には,上記の原水協の記事[1]にも,また原水禁の上記の記事にも記述はない.共産党の金子満広氏は,前出の『前衛』1984年の論文[3]の中で,団体旗「自粛」問題については,「およそ団体の「旗」の規制など,古今東西,平和・民主運動できいたことはありません」と,表現の自由とも絡めて批判している.組織統一問題については「,もともとその世界大会(の統一開催:引用者)も,原水禁運動についての統一組織を『年内をめどにつくる』ことを前提の合意として」行われたにも関わらず,これを反故にして「分裂組織である『原水禁』の市民権をみとめさせ」ようとするものと非難している.

社会党サイドの見方,主張の例として,西谷豊氏の文章[6]によれば,団体旗自粛問題や反トマホーク集会問題については,いったん「各団体が合意したこと」を破棄する共産党はルール違反である,また市民運動や原水協への「介入」があったとしている.また共産党の,「運動の本流」[3]という言い方に対しては,「原水禁運動に果たして,本流と支流,あるいは本流と傍流というものがあるだろうか」「運動に参加するすべての団体,個人はあくまで対等にして平等」だと批判している.

筆者の意見を述べると,まず「団体旗」問題では明らかに共産党の側に分がある.しかしまた,一旦合意したものを運動の最中にひっくり返すと言うのがルール違反と言うのもうなづける.政党と運動団体との関係性という視点では,共産党の側があまりにも介入的であると判断せざるを得ない.

組織統一問題では,社会党・総評側が組織統一の合意を反故にしたのは問題には違いないが,だからと言って独自組織(原水禁)を作る自由を認めない原水協や共産党の態度は異常である(当時,原水禁の集会を『赤旗』は「妨害集会」と呼んでいた).社会党・総評側の,共同行動の積み重ねという主張は,協力すらしないよりはあきらかにマシである.自分の側(原水協)が「本流」(=本家本元)という言い方は,自分の陣営にしか通じない言説だろう.

また,原水協のウェブサイトにこの分裂問題に関する情報がほとんどないのは問題である.「歴史認識」の共有は市民運動,社会運動の分野でも重要で,それぞれの主張や考え,資料の共有はその基盤である.

4 「統一」よりも「交流・共同」を
原水協と原水禁の対立は核廃絶運動にとっても有害である.今日,市民運動グループは数えきれないほどあるにしても,核廃絶運動に関してはこの両者の重みは今も絶大である.それらが互いを無視し別個に集会を開いているようでは,組織的つながりのない人は敬遠しがちになる.ましてや海外からの参加者はもっと戸惑うだろう.その点で,ニューヨークでの「原水爆禁止世界大会」をめぐって両者の交流・共同の動きが見られるようになったのは喜ばしいことだ[7].組織統一など「高望み」をせず,両者の間で交流と共同を進めることが大事だ.

実は筆者も以前からこの方向でのささやかな努力をしてきた.例えば,2013年の世界大会にオリバー・ストーン監督が参加した時,当初は原水協の大会参加だけの計画しかなかったようだが,筆者は同行のピーター・カズニック教授にメールを送り,原水禁の催しにも参加するよう依頼した(2013年6月2日付け,翌日返信).それが主な要因かどうかは定かではないが,結局ストーン監督は両方の大会で講演することになった.詳しくはブログ記事8)をご覧いただきたい.

本稿を書き終えた段階で,この問題で荒川恵子氏9)と青木哲夫氏10)の重要な論文を見つけたので注に記した.

なお,本稿で言及した文書は,筆者の昨年8月26日付けのブログ記事「原水協と原水禁」[11]で相当な分量を引用しているので,必要に応じて参照していただきたい.

注および引用文献(Webpage最終閲覧日:2019年12月20日)
[1]原水爆禁止日本協議会:「原水爆禁止運動のあゆみ」,http://www.antiatom.org/profile/history.html
[2]上田耕一郎:「2つの平和大会と修正主義理論」,『前衛』,1962年10月号,p.61下段9行目.
[3]金子満広:「原水禁運動の当面する基本問題」,『前衛』,1984年8月号,p.40.金子氏は執筆当時共産党書記局長.
[4]原水爆禁止日本国民会議:「運動内部の混乱」,http://www.peace-forum.com/gensuikin/about/undou/03.html
[5]日本共産党第4回中央委員会総会報告(番号は党大会ごとにリセット,1995年).
[6]西谷豊:「原水禁運動はどうあるべきか」,『月刊社会党』,1984年10月号
[7]例えば「「原水爆禁止世界大会米NYで発起人に原水協・原水禁・被団協」『しんぶん赤旗』2019年9月22日.
[8]筆者ブログ記事「長崎の原水禁大会でオリバー・ストーンの話を聞く」(2013年8月11日). https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2013-08-11
[9]荒川恵子:「被爆国の逆説:1957年から1963年日本の反核運動の盛衰」『一橋法学』7(2),593-650(2008).
[10]青木哲夫:「第9回世界大会における原水禁運動の分裂」『政経研究』No.103,29-41(2014).
[11]豊島耕一:「原水協と原水禁」ペガサス・ブログ版,2019年
8月26日. https://pegasus1.blog.ss-blog.jp/2019-08-26
(とよしま・こういち:元佐賀大学理工学部,原子核物理学)
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