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原水協と原水禁 [反核・平和]

IMG_1169w1200.jpg末尾に社会新報の報道
「日本の科学者」2020年4月号に掲載
タイトル部分newlogo全文公開(20/7/1)
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この夏、8月の広島原爆の日の直前、広島の原水禁大会に参加しました。7月に福岡で開いた「原水爆禁止2019年世界大会・科学者集会」の実行委員として「原水禁」の大会で報告するというミッションのためです。と言っても、報告が「予約」されている「原水協」の大会と違って(こちらは別の実行委員が分担)、勝手に出席して機会があれば発言するというもので、「報告」できるとも限らない、という仕事です。それでも、幸いなことに広島大会2日目の第3分科会「朝鮮半島の非核化と日本」で簡単な報告レジュメの配布を認めてもらい、短いながら発言もできました。(写真は第3分科会で講演する米・ピース・アクションのスージー・アリソン・リットンさん)

このプロセスで、「原水協」と「原水禁」の関係性の問題について色々と考えることがあり、また以前からの問題意識でもあったので、少し文献調べをしてみました。それを先日の「福岡核問題研究会」というサークルで8月24日に話をしました。そのレジュメを紹介します。

目次(クリックで各項目にジャンプ)
原水協,略史
「原水協」の発足自民党系・民社党系が脱退60年代の「あらゆる国の核実験」問題1984年〜1985年の再度の分裂
60年代の分裂に関する双方の主張
1.原水協および共産党2.社会党、総評、原水禁
85年の2度目の分裂
1.原水協、共産党2.原水禁、社会党
筆者の評価
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追記(リンク):2度目の分裂、元朝日新聞記者・岩垂弘氏の観察
最後に、1401577.gifおまけ画像と、社会新報の原水禁大会の報道
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原水禁運動の歴史を調べる — 政党との関係性を中心に —
 プリント年表
             豊島耕一,2019/8/24(8/25改訂版) 福岡核問題研究会

今年の夏も原水協と原水禁による世界大会や平和行進が実施された.1977年から1985年まで9年間統一大会が開かれたが,再び別開催になり現在に至っている.

ひと昔前と違って,原水協と原水禁,そしてそれらとそれぞれ関係の深い共産党と社民党との間では,核兵器禁止をめぐって,あるいはその方法論をめぐって,現在は深刻な対立はないと思われる。にも関わらず両者は,互いに重なる場所、重なる日程で別々に「世界大会」を開いており,両者の間の交流も皆無に近い.このような状況は関係者以外には理解しにくいだろう.(今年,赤旗には短いながら「禁」の世界大会の報道があった.)

両者の交流や協力はどうすれば可能なのか,そろそろ両者による歴史の再検証がなされてもいいのではないか?

また,両者とも大会への個人一般の参加は予定しておらず(可能ではあるが,ウェブサイトには全く案内がない),団体を通じての組織参加が原則である.このような形態は運動の発展にとってよいことなのか?

なお,ネットによる情報提供は,原水禁は大会の様子がウェブサイトで逐次掲示されたが,原水協の方は事前の案内告知の後は,大会期間中全く更新されなかった(「しんぶん赤旗」が事実上の広報機関となった).
ツイッターアカウントは,原水禁にはなく原水協にはあるが,これも大会期間中の発信はゼロであった.

原水協,略史
「原水協」の発足

1954年3月1日のビキニ環礁で行われた水爆実験で第五福竜丸ら日本の遠洋漁船が多数被爆(被曝)し、全国的な問題となった。核兵器廃絶を求める署名運動が行われ、翌年8月、広島で「第一回原水爆禁止世界大会」(原水禁世界大会)が開催される。その後、この署名運動の実行委員会が名前を変更し「原水爆禁止日本協議会」(初代理事長は安井郁・法政大学教授)となった。(ウィキペディア「原水爆禁止日本協議会」[以下wiki] 要約)

自民党系・民社党系が脱退 1961年11月
安保条約や原発問題への対応の相違が原因となって自民党系及び民社党系勢力が脱退。民社党系は核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成。
KAKKINサイトから:
核禁会議は、1961年11月15日に「いかなる国のいかなる理由による核兵器も許さない」という立場に立つ学者・文化人・民間団体・婦人団体・労働組合等が結集し、「再び核兵器が使用されることのない平和な世界の建設」をめざし結成された。
(余談 2013年の長崎での原水禁大会(禁)、7日の総会のあと、トイレで耳に挟んだ会話が印象に残る:「今年は核禁会議と別で、とても良い内容だった。あんなの(核禁会議)まやかしだよ」。
 https://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2013-08-11

「あらゆる国の核実験」問題,1962〜1963年
原水禁7回大会(1961年)は、「最初に実験を開始する政府は平和の敵、人道の敵」と決議(wiki)。(原水協サイトには1997年以前の世界大会の情報は掲示されていない。)
直後の8月30日にソ連が核実験を再開。これに対する対応をめぐって原水協は、ソ連政府にも抗議せよとする日本社会党・総評系と、抗議に反対する日本共産党とが対立。(wiki)
「極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない。」 「前衛」1962年10月号掲載、上田耕一郎元副委員長論文「2つの平和大会と修正主義理論」より。(wiki)
原水禁8回大会(1963年) 日本社会党・総評系グループが「いかなる国の核実験にも反対」のスローガンを旗印にして部分的核実験禁止条約の支持を要求した。大会流会。(wiki)

1965年2月 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)結成

1977年〜1985年 原水協と原水禁、世界大会を統一開催 ただし85年は分裂含み。
中国新聞サイトの記述 「ヒロシマの記録1985 8月」
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25955
1985/8/2 原水禁世界大会国際会議が広島市内で開幕。中国が20年ぶり正式参加。統一開催だが原水禁国民会議、総評系代表は大半欠席。アピール起草委員会も紛糾。3日、包括的な核禁条約の締結などを求める「広島から世界の人びとへのよびかけ」を採択。

1984年〜1985年 再度の分裂
(1)団体旗「自粛」問題 (2)反トマホーク行動を起こす申し合わせの破棄
(3)組織統一問題—1977年の「原水禁運動統一」の約束

60年代の分裂に関する双方の主張
1.原水協および共産党
1-1 赤松宏一・伊藤壮・船木幹夫(三多摩原水協)「ソ連の核実験と日本における平和運動」「思想」1962年3月号,p.342,岩波書店
平和運動が「平和の論理」によって発展してきた経過は、畑中政春氏(本紙十二月号「現段階における平和運動」)によって明らかにされている。畑中氏の見解に全面的に賛成しながら、次のように述べておられる点が若干気になるのである。
「ソ連の今回の核実験は、平和のためだから止むを得ないという立場は、単に、核兵器という物体の問題ばかりでなく、それを所有している人間、その国家の性格もからませて評論しようという態度である。」
「それ(ソ連の核実験)は侵略戦争を阻止する”平和の核実験”であり、アメリカ帝国主義がおこなう核実験は”戦争の実験"として規定しなくてはならないという問題意識が、一部の前衛的平和活動家の脳裡に宿りつつあるのではないか。」
「論理がここまで展開されてくるとそれはもはや平和の論理ではない。れそは革命の論理でうけとめてゆくほかはないと思う。」
論旨は明解で疑点はないが、日本の平和運動、とくに原水禁運動の活動家(特に前衛的でなくとも)の当面している問題は、平和の論理に従って核実験に反対しながらも、同時に、同じ論理に従って核実験再開を中心とする情勢——具体的事実——を把握し、ソ連の核実験を含む一連の措置が限界に達した戦争の危機を遠ざけた経過を認識しなければならなくなっていることである。これは、日本の平和運動が事実の認識と行動のつみ重ねによって、平和の敵がアメリカ帝国主義の戦争政策にあることを指摘するにいたった経過と、そして、同時に、世界の平和を維持している力の中にソ連の平和政策があることを認識し始めてきた経過からの飛躍のない連続した発想なのである。

1-2 原水協ウェブサイトの記述(ここには以下の200字弱しか見当たらない。主な争点であった「あらゆる国の核実験に反対」については触れていない。「原水爆禁止運動のあゆみ」から引用。)
この時期には、アメリカとソ連が協調して既存の核保有の特権を守り、後続に道を閉ざそうとする複雑な動きも起こりました。1963年に結ばれた部分的核実験停止条約、1970年発効の核不拡散条約(NPT)などがそれです。また、1960年代には、ソ連の「平和運動」が日本の運動に「部分核停条約」の支持を押し付け、この問題をめぐって世界大会が分裂するという不幸なできごとも起こりました。

1-3共産党の機関誌だが原水協の肩書きでの文書:柴田桂馬 東京原水協事務局長の「真の統一へ分裂策動をのりこえ」(「前衛」1984年9月号から)
当時社会党や総評は、多くの反対意見のあるのを無視して、彼らの特定の理念である「いかなる国の核実験にも反対する」ということやソ連の大国主義的干渉に追随して「部分的核実験停止条約支持」の立場を日本原水協や第九回世界大会全体におしつけできたのです。
1-4 共産党の主張
1-4-a「日本共産党の五十年」1972年,6章,「統一戦線の旗を掲げて」の節
社会党は、総評指導部とともに、その年の夏の第九回原水禁世界大会で、「いかなる国の核実験にも反対」および部分核停条約の支持を大会が決定することを要求し、この一方的な要求がうけいれられないと、日本原水協と原水禁世界大会からの脱退を宣言した。そして、みずからつくりだした原水禁運動のこの「分裂」を口実に、安保反対国民会議の活動を、九月一日の第十二次統一行動をもって打ち切ることを主張して、その機能を停止させた。
1-4-b金子満広「原水禁運動の当面する基本問題」前衛1984年8月号
六三年の分裂は、社会党・総評ブロックを軸にして「いかなる国の核実験にも反対」という特定の政治路線と、そのうえにたった「部分核停条約」の支持を運動全体におしつけようとしてひきおこされました。そして、その過程で、同年二月二十一日には社会党・総評ブロックは自分たちの特定の政治路線である「いかなる国・・・」問題を運動の基本原則とした声明、いわゆる「二・二一声明」といわれるものを、日本原水協と加盟団体全体におしつけてきました。わが党はこの「声明」内容に賛成せず、批判的立場をつらぬいてきましたが、当時、原水協としてはこれに妥協し、賛成の態度をとったのです。これが方翼的な追随的なものであることはいうまでもありません。
1-4-c金子満広「84世界大会と原水禁運動の三〇年」前衛(インタビュー)1984年10月号
そして問題の、一九六三年の第九回世界大会です。ここで社会党・総評指導部は、その「いかなる国・・・」に合わせ、おりから米・英・ソ三国によって、大会直前の七月、モスクワで締結された「部分的核実験停止条約」の支持をソ連からの大国主義的干渉と相まって日本原水協と世界大会におしつけ、これを決定するようせまってきました。
これは、これまでかつてない広範な国民の支持のもとで進められてきた原水禁運動にたいし、社会党などの「特定の政治路線」を基本原則と称して全体におしつけ、全体をこれにしたがわせようとするものでした。したがっでこれに賛成しない人びとは、運動と組織からしめだされるというものです。まさに分裂路線のおしつけです。(p.94)
第九回世界大会は、大会直前に部分核停条約の締結ということがあったため、大会自体も、この問題をめぐっで激しい議論がたたかわされました。私もその場におりましたが、ソ連代表団は、この条約への支持を大会がきめることを要求し、中国代表団は逆に大会が反対をきめることを要求した。日本共産党自身についていえば、党としてはこの条約を支持することはできないことを内外に公表していました。
しかし私たちは、ソ連・中国いずれについてもそれぞれの立場を大会におしつけるべきではない、大会は不一致点については討議はしても、一方のものを他方におしつけるようなことは大会の成功はもちろんのこと、運動の発展と統一にとって重大な障害をつくりだすととになる、という立場をとり、大会は運動の基本目標の一致点でこそ団結すべきである、という立場をつらぬいてきました。(p.95)
1-4-d 共産党「4中総」報告 不破委員長 1995.10
「すべての核実験に反対し、核実験全面禁止条約の締結を強く要求するとともに・・・」

2.社会党、総評、原水禁
2-1 原水禁の記述
(原水禁とは » 原水禁運動の歴史と教訓 » 三、運動内部の混乱
 http://www.peace-forum.com/gensuikin/about/undou/03.html
第7回原水爆禁止世界大会(1961年)になるとこのような混乱はさらに強まった。共産党系諸団体が、(1)平和の敵・アメ帝打倒、(2)中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、(3)軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ、と主張し、党派に属しない人びとのひんしゅくをかった。
社会党やその他の団体は(1)原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。(2)一党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。(3)一致できない活動は、各団体の独自活動で補強せよ、という意見と真っ向から対立した。
結局、共産党系の多数決によって「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」という決議を採択するに至った。ところが大会終了後間もない8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行した。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが“人類の敵”として糾弾はしなかった。さらに日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンを繰り広げた。
日本共産党の“ソ連の核実験支持”運動は異常なものであり、『アカハタ』は連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないように打電し、……原水協でさえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、……湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」(61年9月9日『アカハタ』号外)と書き、「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という手段に訴えるのはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かすというのはこのことです』(野坂議長談『アカハタ』9月9日)と主張した。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の実験)を断固支持する立場に立っている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」(『アカハタ』9月16日)と力説したのであった。
こうして、日本原水協の会議は連日のように“ソ連核実験をめぐる”議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまったのである。
ソ連の核実験をめぐる対立の激化
 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の4団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。
この改革案について中央・地方で6ヶ月にわたる討議がかさねられ、1962年3月の全国理事会では120対20という圧倒的多数で、次のように決めた。
「原水爆禁止運動は、原水爆の禁止・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この場合にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。こうした内容を中心とした「原水禁運動の基本原則」を決定したのであった。
しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を“原水禁運動でしばりつけ、しめつけるもの”として否定し、無効を主張しつづけた。
そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台とはならなくなってしまった。

「いかなる国の……」をめぐっての運動の混乱
こうした情勢のなかでむかえた原水禁第8回世界大会は、統一と団結を守る配慮から“(1)いかなる国の核実験にも反対する。(2)真実を究明し、核実験の根源をとりのぞく”ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。
ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し“(1)平和の敵・アメ帝の打倒、(2)社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、(3)軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争”を原水協の中心課題にせよ、と主張しはじめた。折りしも大会第2日目(8月5日)にソ連が核実験を行ったため、これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥り、多数によって「抗議しない」ことになったため、社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、いっさい決議しないまま流会し、日本原水協の機能は全くマヒするにいたった。

85年の2度目の分裂
1.原水協、共産党
1-1 上記原水協のウェブ記事「原水爆禁止運動のあゆみ」には記述なし

1-2 金子満広「原水禁運動の当面する基本問題」前衛1984年8月号
団体旗の「自粛」の内容とは、まず四月の世界大会準備委員会できめたという「平和行進の実施要綱」に具体的にでてきます。そこではつぎのようにいわれています。
「各参加者・団体の参加形態については、平和行進の目的を達成するにふさわしい創意くふうをこらしたものとし、同時に広範な市民の参加を得やすい雰囲気をつりだすため」—— つまり市民の参加を得やすい雰囲気をつくりだすため、「相互理解の精神にたち、充分な配慮をはらったものとする」、また「政党名を表示した参加ば厳に慎しむこと」というのがあります。ここでいわんとするところが、行進のなかで総評などがしつこく規制をせまるのが統一労組懇や共産党の旗などであることをみれば明らかです。これは会年の経過も同じでした。
およそ団体の「旗」の規制など、古今東西、平和・民主運動できいたことはありません。ヨーロッパの反核運動でも、一昨年の第二回国連軍縮総会の際のニューヨークの一〇〇万人デモでもそうでした。私もそこに参加しましたが、旗、のぼり、・・・
(組織統一問題)
世界大会準備委員会の主な仕事は世界大会を開催することです。もともとその世界大会も、原水禁運動についての統一組織を「年内をめどにつくる」ことを前提の合意として七七年以後おこなわれたものですが、総評・「原水禁」ブロックはその合意を反故にし、しかもそのなかで、分裂組織である「原水禁」の市民権をみとめさせ、原水協と「原水禁」の共同行動をつみあげ、統一組織はつくろうとせず、「持続共闘」でいくという方向をうち出してきました。これがうまくいかないため、その任務が限定されている準備委員会になんでももちとみ、これを舞台にみずからの支配権をうちたてようとしているわけです。(p.37)
ところが一部には、統一組織については総評・「原水禁」が拒否し、「いやだ」といっているのだからできない、しつこくいうのはやめよう、これ以上いうのは大人の立場ではない、「現実路線」でいこう、統一組織体は遠い将来の課題、長期目標としてタナに上げておいてよい、という考えが生まれ、当面は「禁・協」による共向行動が大事だ、それをつみあげていこうという主張がではじめたのです。これは統一組織を放棄した総評・「原水禁」の立場そのものです。しかし遺憾ながら、そうした考え方が原水協、平和委員会の一部にもあるということです。そしてその考え方は、実践の面では、なんの前提も、原則もなく総評といっしょにやりさえすればそれが統一であり、運動の「幅が広がる式」のものとなり、ついには、もともと限定された任務しかもたない世界大会準備委員会になんでももちこみ、統一組織をつくるという原則ぬきの共闘つみあげ、”持続共闘”の態勢をつくろうとする方向になってきました。(p.43 上段)
いったいこれはどういうことを意味するのか。一つは国民的な統一組織体をつくるという合意、すなわち国民にたいする公約の放棄です。二つは、分裂組織でおる「原水禁」に市民権をあたえることになるということです。これは「赤旗」論文「原水爆禁止運動の根本問題」でもくわしく解明されています。そして第三に、そうしたことは原水禁運動全体を安保容認、軍拡容認の「原水禁」と総評の路線の枠のなか、その許容範囲に押し込めることになるということです。どんなに人がよくても、これほとうてい容認することはできません。それを原水協や平和委員会の世界大会準備委員会に出ている代表は、こうした「原水禁」側の「持続共闘」のいい分を容認してしまったのです。当然のことですが、こうしたあやまりは原水協の機関で批准されず、みとめられない結果となりました。しかしこの事態について大衆的に全国的に討議がされなかったことは残念であり、今後の教訓にしなければならないと思います。(p.43下段〜p.44)

2.原水禁、社会党
2-1 原水禁の上記ページには記述なし


2-2 社会党サイドの見方,主張
西谷豊「原水禁運動はどうあるべきか」より.月刊社会党1984年10月号.《 》内は引用者
《「手続き違反」という主張》 団休旗自粛問題といい、反トマホーク集会問題といい、いったん準備委内で各団体が合意したととが次々と破棄されたり、否定されたことは、他団体の困惑と反発を引き起こした。六月一六日に市民団体の連名で発表された「市民団体の見解」と題する文書は、そのことを如実に示している。そこには「準備委員会の民主的運営からいって、通告による破棄が一方的におこなわれるのは遺憾である。しかし、それはわれわれ七団体の同意するところではない。なぜならば平和大行進及び反トマホークデー提唱についてみられる破棄通告及び取消し申入れは、通常の初歩的な民主的会議運営の原則に反するものであって、七団体としては理解できない性質のものである。ひとたび、異議なく合意されたものに、拒否権行使がゆるされるならば、すべての共同行動は不可能となってしまうことを、心から憂慮する」とあった。名ざしではないが、それは明らかに共産党系団体に対する批判であった。(p.85)
《市民団体への政党の介入である》
それにしても、大会の準備過程や一連の紛糾を振り返って気づくのは、共産党の動きであろう。とりわけ、原水協の路線と人事への介入が目立つ。
共産党自身、運動や原水協への積極的関与を隠してはいない。たとえば七月一〇日付『赤旗』主張は「宮本議長は、前記発言(七七年八月三日の中国放送インタビュー)のなかで、政党の役割は『控えめでなくてはならない』といいながらも、その果たすべき役割の内容として『分裂しそうになるときにそれを防ぐとか、まとめるときに働くというとと』を強調しています。つまり、原水禁運動が重大な局面をむかえたときに働くことです」といい、また、原水協の人事に不当に介入したのではいかとの批判に対しては「原水協の方針に反して、こうした変質路線に追随してきた党員を、党が然るべく批判するのは当然で、それを大衆団体の党への従属とか党の介入とか非難するのは、全く問題のすりかえである」(高野好久共産党中央委員会広報部長、七月三一日付「朝日」論壇)と言い切っている。
だが、党の方針に反したからといって、大衆団体のリーダーに批判を集中し、大衆団体内の党員を動員して、リーダーをそのポストから解任するというのは、やはり異常であろう。なぜなら党と大衆団体はそれぞれ独立した別個の存在であり、大衆団体は党の従属物や下部組織ではないからだ。大衆団体には大衆団体としての論理と原則があるわけだし、大衆団体の構成員はすべて特定政党の党員というわけではない。つまり、大衆団体はあくまで政党から独立した存在なのである。したがって、政党と大衆団体の関係では、政党側の慎重な、抑制ある態度が求められるというものだろう。(p.88)
《「運動の本流」主張は独善》
共産党の主張で気になることがまだある。「原水協こそ運動の本流」という主張だ。原水禁運動に果たして、本流と支流、あるいは本流と傍流というものがあるだろうか、と首をかしげる人が少なくない。運動に参加するすべての団体、個人はあくまで対等にして平等というものであろう。(p.90)

筆者の評価
 ・・・「後知恵」で判断・評価できることも多いのではないか。

第一次分裂
「あらゆる国の核実験に反対」を「特定の主張の押し付け」とする共産党(系)の態度は異常。むしろ、「特定の国の核実験には沈黙せよ」という方が「特定の主張の押し付け」と言うべきだろう。

第二次分裂
社会党・総評側が組織統一の合意を反故にしたのは問題に違いないが、だからと言って独自組織(原水禁)を作る自由を認めない原水協や共産党の態度は異常。(当時、「禁」の集会を赤旗は「妨害集会」と呼んでいた。)社会党・総評側の、共同行動の積み重ねという主張は、何も協力しないよりはあきらかにマシ。自分の側(原水協)が「本流」(=本家本元)という言い方は、自分の陣営にしか通じない言説である。
「団体旗」問題では明らかに共産党の側に分がある。しかし同時に、一旦合意したものを運動の最中にひっくり返すと言うのがルール違反、と言うのもそのとおり。

政党と平和運動団体との関係の問題の視点では、共産党の側があまりにも介入的であると判断せざるを得ない。第二次分裂の時期に関しては、この問題での「月刊社会党」の記事は1984年は3本しかなく、それらも党機関の肩書きのものではない。これに対して「前衛」では、金子氏が「党中央書記局長」の肩書きで2本の論文を出している。

「協」の方に肩入れしている科学者会議としては、肩入れしている組織に意見する役割が大きいと思われる。
             以上
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5日、国際シンポも終わった後に原爆ドームに行ったら、池上彰氏のテレビのロケ(or中継?)の最中だった。柵の外の歩道から、通行人がみなスマートホンを向けていた。
IMG_1168h.jpg
1401577.gif8/28の「社会新報」が報じています。下の写真、右上の「第3分科会の様子」に、なんと発言中の私が写っていました。写真の左上、マイクを持っている人物。
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「日本の科学者」2020年4月号に掲載されました。→(20/7/1追記)全文公開
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