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安倍政権下「だけ」での改憲反対? [憲法・教育基本法]

(少し長いので目次を付けます.軍隊で実際に国が守れるのか「攻められらどうするのか」「電子国家」の国防共産党の「自衛隊活用」論について

安倍政権下「だけ」での改憲反対?
護憲運動の中では,「安倍9条改憲NO!」や「安倍政権下の改憲阻止」というスローガンがよく見られる.というより,9条改憲反対のスローガンが「安倍」の接頭語と癒着してしまったかのようだ.もちろん,現在の安倍政権の下で改憲されたらたまらない,改憲に進む危険度も高い,そしてより幅広く結集しやすい「最低限レベル」のスローガンが選ばれた,という事情を反映してのことだろう.しかし同時にこのスローガンはまた,安倍政権がまだ相当期間続くことを暗黙に認めている.不正とスキャンダルにまみれたこの政権は,これまでにも何回も潰れていたはずのものではないか.まだ延命を許すつもりなのだろうか.また,安倍政権下でなければ9条改憲もありうるということも,暗黙に含意している.「幅広く結集」の役割と同時に,極めて危うい性格も持つ.

重要なことは,行動や主張の幅を狭めないことだ.「9条原理主義」,つまり自衛隊違憲=廃止論,つまり人道的救助組織への改編などがもっと姿を見せなければならない.声を響かせなければならない.これは護憲派の分断ではなく,護憲派に厚みを加えることだ.護憲派の多くが値切られてしまって,「専守防衛なら自衛隊OK」という線まで後退しているように見える.しかしこの論は矛盾を含み,そのため説得力を欠く.9条原理主義は,護憲派がズルズルと改憲派に引きずられないための,重要な左からの「錨」としての役割も果たさなければならない.

軍隊で実際に国が守れるのか
kurashinotecho18spring66.jpg伊勢崎氏らの「新9条論」は,実質的に自衛隊加憲と変わらない.そのことによって法体系が完全なものとなることはその通りだ.「軍法」を持たない武装組織という矛盾はなくなる.しかし,法的な完全さと,戦争になりにくさとを天秤にかけなければならない時,つまり「9条と自衛隊」の矛盾がまさにそれだと思うのだが,どちらを選ぶべきだろうか?答えは明らかだと思う.

伊勢崎氏の新9条論については,昨年9/18の記事で彼の著書「新国防論」を批判したが,同じような主張が「暮らしの手帳」2018年春号に出ている.彼は自衛隊という言葉の代わりに,「迎撃力」としているが,実質的に同じことだ.このように,「専守防衛」的な性格の軍事力を肯定する人が多数派となったかに見える現在だが,果たして軍事力があれば侵略から,100%とは言わないまでも,相当な確率で,また少ない被害で国土と国家,そして住民を守れるのだろうか?それは単に希望的観測に過ぎないのではないか.

大規模な自然災害から十分に防護することは不可能ということは誰でも分かる.戦争や侵略でも同じで,侵略者は決して簡単には撃退されないような装備と戦術でかかってくるだろう.つまり,武力抵抗すれば少ない被害で防衛できる,などということは希望的観測に過ぎない.世の中には,「どうにもならないこと」というのがあるのだ.それとも,「名誉のためには武力で一矢(いっし)は報いるべきだ」とでもいうのだろうか.

「島嶼防衛」のような,海洋や人口の少ない場所での交戦はどうか?そもそも,そのようなケースで殺し合いをすべきなのか?仮に一時的に占拠されるとしても,国際的な司法システムを経ると言うぐらいの忍耐を持つべきではないのか.

「攻められらどうするのか」
作家の保阪正康氏は,「明日攻められらどうする というネトウヨ的質問には『答えない』が正解」と述べている(https://snjpn.net/archives/40787).説得力ある議論だが,彼が言うような内容で「答える」ないし説明する必要はあるし,また「明日」でないとすれば,「攻められる」ことは全くあり得ないことではないので,正面からの答えも用意しておかなければならない.私の答えは,このブログで繰り返し述べている「代替防衛」である.その一つにリンクする.→憲法九条下での国防
もう一つは「対称性」→「攻められる」ことと「攻める」こととの等確率性

20180115_wb_nl03_4cad3c978f82f28b_9.jpg「電子国家」の国防
テレ東WBSの1月15日の放送で,エストニアの「電子国家」ぶりが紹介されたが,その中にも「国防」についての重要なヒントがあった.同国では,行政に必要な情報はほとんどすべで電子化されている.国会ですら,議員はスマホやタブレットで議事に「出席」できると言う.

「国防」に関しては,国家の3要素,領土,国民,主権のうち,仮に領土が蹂躙されても,統治に必要な「データ」を奪われなければ,侵略者は国家を統治することが出来ない.そこで同国政府はそのデータを世界各地に分散保管しているという.スタジオでは,「領土」ではなくて「データ」こそが重要ということを表すフリップが示された.
DSC_2068.JPG

共産党の「自衛隊活用」論について
なお,共産党の「自衛隊活用」論は,伊勢崎氏の9条と自衛隊をめぐる論理的批判の100%の標的になる,つまり氏に対しては全く反論できないお粗末な議論である.これについては,次の記事に詳しく書いている.
共産党の大会決議案に「自衛隊を活用」が復活
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バッジ@ネオ・トロツキスト

「専守防衛なら自衛隊OK」というかたちでの武力自衛(可能)幻想の無自覚も、結局は、観念論への屈伏なのですね。

「法律学の幻想」や「科学的分析無き道徳論」を断固拒絶するマルクスのものの見方(=唯物論)とは、資本主義システムであれ、武力自衛政策であれ、その正当性の有無がその有効性の有無によって規定されている、という「歴史主義」とも形容できる対象観・世界観でしょう。
そう、ある時点まで正当であり有効であった資本主義や武力自衛政策も、やがては歴史的に正当性を失って行く、という。
その原因は、そういうものの正当性の根拠になっていた、そういうものの有効性それ自体が、人類社会の物質的な発展過程により歴史的に喪失して行くことになるからだ、と。

結局、道徳的価値意識・社会規範意識をも規定する、事物の有効性の有無に関する事実認識の問題なのですね。だから、実証主義者や実利主義者でも、真実には接近できる。
愚かな道徳的「平和主義者」より、キッシンジャーのようなリアリズムが事態を把握出来るというようなことにもなる。
「愚かな味方より賢い敵」の方が、「愚かな唯物論者より賢い観念論者」の方が、歓迎すべき「友」になるようなことにもなる。

今年も「友」探しに勤しむ年になるのかな?
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2018-01-19 10:29) 

yamamoto

古代社会から最近まで,国家や集落の武力防衛は当然のことだったので,その「記憶」は相当深く人の脳に刻まれているでしょう.だから,「もし攻められたら」という問いは繰り返されるでしょう.3000万署名で戸別訪問するとき(この運動の鍵は戸別訪問の成否にあると思います),何らかの説得的な答えを用意しておく必要がありますね.
by yamamoto (2018-01-19 12:49) 

無頼派

記事全体、鋭い論説と思い、同感です。
共産党の自衛隊論の稚拙さ、思想的土台の空疎さは、自衛隊の災害救助活動と武力組織としての任務をごちゃまぜにしたうえで、急迫のケースとして大規模災害を挙げている点です。憲法との関わりで自衛隊が問題となるのは後者のはずなのに、こういうすり替えをわざとするのは、共産党が「当分」、自衛隊の存在を容認する理由を説明する時に災害救助の任務を挙げた方が受けがよいと考えたからでしょう。「世論との摩擦」を避けるためなら、論理の筋道を意に介さない最近の共産党の思想的退嬰の好例と思えます。

私が共産党の自衛隊論について関心を持っているのは別の方もコメントしていますが、「専守防衛」=「自衛」のための「必要最低限の」戦力保持論で9条改憲論、加権論に論理的実践的に対峙できるのかということです。
端的に言って、この議論は「専守」、「必要最低限」というフレーズをただフレーズとして「侵略」「先制」と対置するだけの気休めのぬゑ的議論だと思います。
安保法案が審議中に、ある防衛省OBが「戦地では『必要最小限』ではなく『必要最大限』が原理だ」と語っていましたが、まさにこれが交戦のリアルでしょう。
核の使用と言わずとも、ミサイルの使用となれば、「先制こそ最大の防御」ではないですか? 「専守」などいうのは稚拙な言葉の遊戯です。
今の共産党はこういう議論にすすんで乗っかる地点まで堕落したということだと思います。

ついでに言えば、共産党が、自衛隊の存廃について、「わが国を取り巻く安全保障環境に関する国民の総意」に下駄を預け、持論としてきた違憲論を事実上、封印して「世論待ち」の姿勢を続けるのなら、「前衛」という党の機関誌は、誌名を「後衛」と改めるべきです。
by 無頼派 (2018-01-20 02:03) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

階級闘争や生産手段の所有形態を歴史発展や人類史段階の究極的規定要因だと誤信・強弁してきた20世紀マルクス主義の主意主義的世界観が、実際には唯物論とも弁証法とも無縁な愚かな観念論でしかなかったことにすらまだ気づいてないんですね。(『資本論』序言参照のこと)
だから、教条解釈や古典講釈は大好きなくせに「軍国主義滅亡の弁証法」の今日的発現形態についてさえ考えてみようともしない「マルクス主義」気取りが、政治の世界でも大手を振ってまかり通り続けている。(ま、二物間の「対立」と「矛盾」の違いも、矛盾の「lösen=解決」と「aufheben=解消」の違いも理解せずに「主義者」ぶっているような連中で溢れかえっていたのが20世紀だったから、しょうがないのかな?w)

もっとも、20世紀には『帝国主義論』の叙述やロシア革命以降の歴史の現実などもありましたから、よほど自律した思考態度に努める左翼でないと「軍国主義滅亡の弁証法」の今日的検証・展開の必要という問題意識にまでは辿り着けなかったのかもしれない。だから、ほぼ全ての左翼において、武力自衛(可能)論それ自体の現実的妥当性・有効性にまでは課題設定が及ばなかった。(もっとも、戦争目的(=強力行使における獲得目標)の歴史的変遷の実証的研究ぐらいしてみれば、1945,8,6や9,11以降の人類社会で弁証法の新たな発現を直感することは可能だったでしょうが・・・)

ことほど左様に「マルクス離れ」を起こしているんですね。
「資本主義の枠内での改革」戦略や「市場経済の活用」問題をはじめとして、あらゆる領域の政治的・政策的重要問題で理論的退嬰と後衛化が進んでいます。
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2018-01-22 10:53) 

H. Satou

私は自衛隊は憲法違反であるから、これを解体すべきであると思います・
そうすると、「どのようにして国を守るのか?」訪ねたくなるでしょう。

私は、防衛は国民皆武装でまもればよいと思います。
すべての18歳以上の国民に、国が武器(自動小銃くらいを)を支給し、すべての国民は3年に2ヶ月の割合で防衛任務に従事し、1年に2週間位の期間防衛訓練を行なうようし、普段は通常の生業に励んでいればよいと思います。

常備軍を持つと、結局は”防衛のための先制攻撃”として他国を攻撃することになります。

昔、私の子供の頃は私の村では消防は、商業的消防組織ではなく集落の質的な消防団で行われていました。国防もそうした方法で行えばよいでしょう。

by H. Satou (2018-01-22 19:34) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

Satouさんも、強力(ごうりょく=ゲバルト)行使による獲得目標の歴史的変遷について、一顧だにしていませんね。
サイバーテロや核戦争(それが「限定」であっても)に典型な現代の強力行使が目標・目的としているものは、古典的な侵略戦争や防衛戦争が目的としていたものとは既に全く異なっているのであり、武力自衛の有効性が破綻した、武力自衛の地平の外に存在している強力行使なのですよ。
だから、現代の人類社会における平和は、その破壊の手段が多様化していることに反して、武力により実現することはほぼ完全に出来なくなっている。ヒロシマ・ナガサキも地下鉄サリン事件も9.11テロも、武力では防げなかった。だからキッシンジャーでさえ核廃絶の立場に大転向せざるを得なかったのです(ただし彼は、武力の剥き出しの本質の活用意図の放棄までは表明していない)。

正規軍であれ民兵であれ、そういう種類の問題ではないのですよ。
「平和のための武力」の有効性が完全に喪失しているのが現代人類社会だということなのです。そういう議論は、憲法で銃器所持を保障され、いわゆる「自衛する市民」主義に固執していたアメリカ社会の銃規制運動の中などからも近年登場してきています。
だから、「滅亡の弁証法」なのです。

by バッジ@ネオ・トロツキスト (2018-01-23 10:19) 

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