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メディア人の個人責任 [メディア・出版・アート]

今日の政治支配の手段はメディアであると言い切っていいほど,その役割は決定的である.だから,「テレビは見ない(持たない)」「新聞は見ない」という人は,現在の政治闘争の主戦場からは退避しているということになる.極端に言えば修道院で暮らすようなものだ.もちろんテレビなしの生き方を否定するつもりはないが,「メディアの言説」という政治に関する重要な情報から自らを遮断することで,政治への関与の手段を自ら制限していることは間違いない.

メディアの劣化が言われる.たしかに,NHKのNW9を筆頭にテレビのニュースのひどさは,「メディアリテラシー」という言葉を知らない人でも感じるほどではないか.しかし,大半の人はそのまま鵜呑みにすると思われるし,その圧倒的な影響の下で参院選が行われようとしている.

当ブログではメディア対策の重要性を繰り返し主張している.投書や電話,ネットなどで積極的にメディアに接するだけでなく,メディアへのデモも提案している.ここではさらに,メディア人の個人責任の問題を取り上げる.

科学技術の分野では,その分野の倫理問題を扱った教科書があり,大学ではカリキュラムにも組み込まれている.ある教科書[1]には,「組織上の不服従」というキーワードがあり,その応用例として,技術者が,自分が安全でないと思う製品の設計を拒否する場合を議論している.「不参加による不服従」と名付けているが,これをメディア分野に引き写せば,「自分が真実でない,公平でないと思う番組の制作を拒否する」ということになろう.メディア分野の倫理に関して,このような議論がなされているだろうか?

つまるところ責任は個人にあるのであって,「組織」は責任主体ではありえない[2].「上司の命令」が絶対的でなく,それが不道徳な行為の100%の免責理由になり得ないというのは,なにも戦争犯罪に限ったことではないのである[3].

もちろん,科学技術分野でそのような教科書があり,そのような項目があると言っても,その教育が十分とはとうてい言えないし,多くの科学者・技術者が意識しているわけでもない.そもそも「不服従」という言葉じたいが広辞苑の項目に見当たらないのである[4].

追記:「不服従」という行動はもちろん極端なケースで,それまでには何段階ものグレードがあります.拙文「『御用学者』批判ができない大学社会」の末尾に書きましたように,「強気と弱気,信念の強弱という人びとの広いスペクトルのすべての部分で,それぞれが可能性を信じ,少しでもアクティブな方向へシフトすること」を提唱します.
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[1] C.E. Harris, Jr. ほか,科学技術者の倫理,丸善,2002年.
 次の記事でも引用:http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2013-04-17
1401577.gif(2014.2.5)該当部分を文字化しました.
(日本語訳)
http://ad9.org/pegasus/society/ethicalisssues/harris-J8.8.htm
(原書該当部分,英語)
http://ad9.org/pegasus/society/ethicalisssues/HarrisJr.et.al8.5-8.6.htm
[2] 福島原発事故の責任のかどで東電を罰するとして,東電という会社そのものを監獄に入れようとしても,一体どうすればいいか分からない.
[3] 戦争犯罪の場合はニュルンベルク原則第4条.
 http://ad9.org/pegasus/peace/nurnberg.html
 1401577.gif(2015.1.21追記)同日本語訳
 http://ad9.org/pegasus/peace/nurnbergprincipleJ.html
 これの元となった国際軍事裁判所規約
 http://ad9.org/pegasus/peace/nurchartr.html
[4] 英語辞書との比較は上記[1]のブログ記事参照.
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