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外国の軍隊に対する非暴力抵抗 [反核・平和]

YuriiSheliazhenko.jpg先日、ウクライナ戦争をめぐっての講演会があった・・いや、実は主催者側。質疑応答の中で、武力侵略に対して非暴力によって抵抗するという方法もあるのではないか、と質問した。ウクライナでもそのような勢力があり、昨年の原水禁大会でも「ウクライナ平和主義運動」のユーリイ・シェリアジェンコ氏がリモート講演している(ブログに一部を引用)。過去の例では、チェコやバルト3国がソ連に軍事侵攻・占領された際も同じような非暴力の抵抗が起こり、長い間主権が蹂躙されたが、時間をかけて独立を回復した。このような事例もあるが、どう思うか、というような趣旨である。

残念ながら講師には質問の意図があまり伝わらなかったようで、「向こうが軍隊で攻めてきた時に非暴力というのはどうか。私は逃げた方がいいと思いますけど」と言うようなスレ違いのやりとりに始終した。

cover.jpgその質問で私が何が言いたかったかを、エリカ・チェノウェスの「市民的抵抗」の中に見出した。なにしろ長大で、時間を見つけては少しずつ読み進めるというペース。たまたま数日前にその一説に到達した。その部分を引用する。この本のテーマの中心は、独裁政権に対する民衆の効果的な抵抗の方法であるが、以下の部分では、まさに外国の軍事力に対する国家的防衛の問題にも触れている。

なお、シェリアジェンコ氏の講演について、全文転載の許可を原水協からもらったので、出来るだけ早く転載したいと思います。(北西ロシア平和運動/フィンランド湾南岸公共評議会のオレグ・ボドロフ氏のメッセージも)
1401577.gif*関連記事 「憲法九条下での国防」....マイケル・ランドルの「代替防衛」論について
4章 市民的抵抗と運動に対する暴力 (p.287-292)

インドの塩の行進は、大英帝国ではなくヒトラーに対する闘いであったら、非暴力を維持できたか?

これはよくある質問だ。だから、こう質問したくなる憶測を注意して考察してみよう。欠点のあるいくつかの憶測がとう質問したい気持ちにさせるのだ。第一は、大英帝国がインドやその他の場所で寛容な植民地制度を営んでいたという考えだ。第二は、ヒトラーの政権は非暴力抵抗に遭ったことがなく、ほんの少しでもそうした動きがあれば握りつぶしていたという考えだ。これらについて、それぞれもう少し詳しくみてみよう。

第一に、イギリスの植民地主義がいかに残酷であったかを認識することが重要である。大英帝国は、カリブ地域、アフリカ、当時はイギリス領インドとまとめられていた、現代のインド、パキスタンおよびバングラデシュを含むアジアにおいて、植民地支配を維持するためにたくさんの野蛮な戦争を仕掛けた。帝国は、大規模虐殺など、衝撃的な残虐行為に出た。ガンディーの運動は、何度も暴力の被のような攻撃を受け、あまりのひどさにインド人たちが国中で大規模蜂起に立ち上がったほどである。たとえば、一九一九年、イギリスの植民地軍は、インドのパンジャーブ州の都市アムリトサルに集まった非暴力抵抗者たちを何百人も殺害した。何千ものインド人が、ヒンドゥー教とシーク教の祭日であるバイサキを祝うために、そして、数日前に逮捕された独立支持派の二人の指導者―サティヤーパルとサイフディン・キッチリュー―の逮捕と追放に平和的な方法で抗議するために集まっていた。大規模暴動が起こると見込んで、イギリス軍の准将代理は、英領インド陸軍を送り込み、群衆に向け発砲するよう命じた。何百人もが殺害され、千人以上が負傷した。事件について、J・P・トンプソン英領インド帝国パンジャーブ州知事は、こう日記に記している。「血のビジネスで二百から三百人が庭で殺害されたようだ・・・が、おそらくその行為は結果をもって正当化されるだろう」。

この冷淡な表現が意味するのは、植民地行政は暴力をもってこの地域を支配していたということだ。事実、アムリトサルの大虐殺は、インドにおいて例外事例ではなかった。一九三〇年、ガンディーは塩の行進で大衆運動を率い、何千もの支持者が同伴してインド洋を目指し、イギリス植民地法が独自に塩を生産することを禁止する規定に背き、違法に塩をつくりはじめた。一行が到着すると、イギリス植民地行政当局はガンディーと約六万のインド人を拘束した。この事件に対し、国中の大勢のインド人が市民的不服従行動に出た。インド人の詩人で独立主義者のサロジニ・ナイドゥは、何千もの人びとを率いて、ボンベイから百五十キロほど北、ダラサーナ製塩所に向け行進した。彼らが到着すると、先端が金属製の棍棒を持った植民地軍が、活動家を叩き、何人かを殺害し、数百人を負傷させた。

かねがねイギリス本国の市民は、反対意見もありながら、自分たちの政府が軍事力を投入して反植民地の反乱を鎮めているという事実を受け入れていた。政府は、植民地の反乱者たちを、植民地支配者や家族に対してもっと残虐な暴力を用いる「野蛮人」と言い表していた。白人であるヨーロッパ人には他者を従属させる権利があるという人種差別的な考えによりかつイギリス軍兵士がこれらの戦争で死傷していたという事実によって――イギリスの市民はこの構図を受け入れていたのだ。しかし、ジャジャーナリストが、非暴力闘争に訴えるインド人に対する大虐殺がおこなわれているという残酷な事実を報じはじめると、世論は変わりはじめた。報道をつうじて、反乱者と扱われているのが非武装の子ども、女性、男性であることが明るみになったのだ――そして彼らの家族の一部はイギリス軍とともに、第一次大戦から第二次大戦にかけてドイツと戦った人たちだった。

ここからは、本節のタイトルにもなっている仮定的な問いの第二の誤謬を考えよう。ヒトラーであれば、自分の支配の意のままにするために、非暴力抵抗を握り潰しただろうという主張だ。実際には、ナチスが占領したヨーロッパ中で、人びとは暴力抵抗でも非暴力抵抗でもナチスに挑戦していた。しかし、ヒトラーがとくに対応に困った脅威とされているのは非暴力抵抗である。ヒトラーと部下の将軍たちは、実は、ナチス支配領域に広まるようになった非武装の抵抗をどう打ち負かせるのかわからずにいた。支配下にあったノルウェーやデンマークでは、人びとは、さまざまな手段で抵抗をおとなった。たとえば、ナチスの車両の燃料タンクに砂糖を流し込む、抵抗方法についての情報を秘密出版で広める、情報を集め抵抗グループに渡す、武器を盗む、限定的なストライキや自宅待機を組織する、学校のカリキュラム変更命令に対する協力を拒む、指示や労働者の仕事についてわからないふりをし、武器工場を破壊するといったことである。デンマークでは、ドイツが占領を続けるために、自前で車掌を揃えるまでの間デンマークの列車を使おうとした。その計画を遅らせるために、デンマークの車掌らが職場に姿を現さなくなった。秘密発行の抵抗新聞が国中で配られ、さまざまなかたちでドイツの軍事車両や武器が破壊され、毎日の労働停止をつうじた徹底抵抗もおこなわれた。組織的な怠業――昼間に二分間起こったは、ナチス支配に対するデンマーク人たちの継続的な抵抗の象徴的デモとして、よくおこなわれていた。ナチスがデンマーク国内のユダヤ人を拘束して強制収容所に送る準備をしているといううわさが広まると、何千ものデンマーク人が近所のユダヤ人を自宅に匿い、沿岸に運び、海を越えてスウェーデンに避難させる船に乗せた。それにより七千人以上のユダヤ人の命が救われた。こうした行動のすべてに、かなりの計画、組織、秘密――そしてデンマークの一般市民の幅広い関与が必要だった。

戦略家のバゼル・リデル・ハートは、こう述べる。「〔ナチスは〕暴力を専門としており、同じく暴力的手段に訴える敵の扱い方は訓練されていた。しかし、それ以外の形式の抵抗がナチスを困惑させたその方法がとらえがたく、隠されていたために、さらに一層当惑させた」。ヒトラーは、一九四三年七月、顧問のアルフレート・ローゼンベルクにこういった。「支配地域で人びとを思うがままにすることは、むろん、心理的な問題であるといえるだろう。力だけで支配することはできない」。また別のところでヒトラーはこう記している。「長い目で見れば、政府制度は軍事的な圧力のみを用いてまとめ続けることはできないもので、むしろ政府制度が国民の利益を代表し促進するような質と真実性を持っており、それらがあるという信頼により維持できるものである」。

確かに、ヒトラーが力を確立してしまうと、ナチスドイツの中で、非暴力にせよ暴力にせよヒトラーに抵抗しようという組織的で広範囲にわたる試みはなされなかった。しかし、非暴力的抵抗に訴える意味はあると思える余地はあった。非暴力抵抗が可能であり、場合によっては、いくらか効果があると示す余地があったのだ。とりわけ痛ましいエピソードにおいて、白いバラと自称する学生グループが、ヒトラーとナチスの失脚、戦争と軍国主義の終焉、そして民主主義への回帰を求めて、一九四二年六月から一九四三年二月の間、地下運動を展開した。このグループは六冊のリーフレットを印刷し配布したヒトラーの全体主義国家においてはきわめて危険な取り組みだった。ミュンヘン大学の守衛がこの動きを発見すると、この学生や共謀者たちは捕らえられ、処刑された。しかし、彼らは、ナチスが描こうとしてきた、ヒトラー政権を支持する社会的一致、熱意、同意といったイメージ、抵抗の意欲を削いできたイメージを壊した。

白いバラおよび若き反乱分子の処刑のニュースはドイツ中に広まり、一方では一般のドイツ人の士気を低下させ、もう一方ではその他の非協力ショーを促した。たとえば、謎に包まれた「執行委員会」が個別メッセージをナチ党支持者に投函しはじめ、戦争終了後すぐにナチ党支持者はナチ犯罪の共謀で対価を支払うことになるだろうと警告した。日記の中で、プロイセンの貴族フリードリヒ・レック=マレクツェウェンは、白いバラのニュースとその後の出来事が、自分の街にいるナチのシンパに多大なる影響を与えたことを書き記している。
死者の亡霊がもう仕事をはじめており、ナチの支配構造に対する制度的な弱体化という効果が感じられる。数週間経った今、階級の下位にある者たち、地区職員、郡区長、そして政権の砦となっている人びとが、ナチス神話の崩壊だと気づいてもらおうと、徐々に態度に示しはじめている。
レック=マレクツェウェンはヒトラー君臨中ひそかに反対していた者であり、以上の動きは、政権に対する人びとの支持が自分が予期するより早く崩壊することを示していると受け取った。しかし、彼にとっては十分には早くなかった。レック=マレクツェウェンは一九四四年十月に逮捕され、ダッハウに連行され、三ヵ月後に処刑された。

ドイツ人の中には、運よくナチのプログラムに抵抗できた者もいる。一九四三年二月から三月のベルリンでは、約百人の女性貴族がゲシュタポ事務所の外にあるローゼンシュトラーセ[バラ通り〕に集まって、ユダヤ人の夫の帰還を求めた。その夫たちは、拘束され、強制収容所に連れていかれる予定となっていた。ゲシュタポ職員がマシンガンで女性らを脅し、家に帰れと命じた。にもかかわらず、彼女たちは泊まり込む場を設営しはじめた。この女性たちをどう解散させるかという問題が、ナチ党の最高幹部たちに持ち上がった。上級幹部たちの間では、スターリングラードにおける敗戦やナチスに対する国内での抵抗行為による最近の士気の低下に続いて、ベルリンで多数のドイツ人女性を殺害すれば政治的崩壊が起こり得るという点において意見が割れていた。党はジレンマに直面していた。勇気と夫への信義を示すアーリア人女性たちを殺害するか、たとえ一時的であっても、彼女たちのユダヤ人の夫を静かに引き渡すか。結局、ヨーゼフ・ゲッベルスはすべての男性を解放するよう命じ、混乱を避けるためにダビデの星をもう身に着けないようにと指示した。この一件は、全体主義のもとでの注目に値する、効果的な反抗行為であった。

こうした非暴力抵抗の集団的行為の他にも、ナチの計画を覆す効果的な個々人の努力があった。ドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、約一万二千人のユダヤ人を自分の軍需工場で雇用し、彼らの命と引き換えにナチ職員に賄賂を渡すことにより、絶滅収容所行きから救った。同様に、ベルトールド・ベイツは、ドイツ人石油産業家であったが、多くは病気やけがで働ける状況にはなかったにもかかわらず、約八百人のユダヤ人に労働許可証を与えることで、絶滅から救った。イスラエル政府は、自らの命の危険を冒しながらユダヤ人の逃亡を助け、ホロコーストのさなかで絶滅収容所から救った非ユダヤ人の記録をとっている。「諸国民の中の正義の人」であり、多大なるリスクを取り、実質的で幾度にもわたる支援を提供し、何ら見返りを期待しなかった人びとが選ばれる。二千七百人以上の名前がリストに掲載されているうち、六百人以上はナチスドイツに住んでいた。

まとめると、イギリスの植民地主義に抵抗した人びとは、残虐で暴力的な植民制度と戦っていた。サッティヤーグラハというガンディーの実験的方法は、こうした抑圧的な環境、つまりイギリスの人びとの目には触れない遠い場所で、反抗的行為は残酷に処罰される環境で、考案された。イギリス統治下のインドで何百万もの人びとを独立闘争に参加しようと思わせたのは、まさにこの残酷さだった――結果として、一九四七年にインドは独立と分割に至った。さらに、ナチス支配下の非暴力抵抗は単に存在しただけではなく、場合によっては効果を発揮した。そのような抵抗がナチス政権を崩壊させられなかったとしても、それでも何千もの命を救い、かつドイツ国内のナチス支持者の忠誠心を弱めていった。ガンディーがドイツ人ではなくイギリス人と戦っていたから市民的抵抗だけで済んだのだという指摘は、いずれの地でも非暴力抵抗の軌跡があったことを無視している。

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