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「科学的」という言葉を問いなおす [仕事とその周辺]

物理の同僚による講演レジュメを紹介します.8ページの,ほとんど論文と言えるような詳しいもので,無条件的に権威を揮っている「科学的」という言葉にするどい考察を加えています.本人の了解を得て,次からダウンロード出来るようにしました.末尾の文献リストも充実しています.
http://ad9.org/people/science/ZendaikyoKyushu_Kyokensyukai120826h.pdf

タイトル,目次,そしてサワリの部分を抜粋・紹介します.
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福島第一原発事故をめぐる科学者の社会的責任を考える
    岡本良治(九州工業大学名誉教授)
目次
1 福島第一原発事故の衝撃と波紋
2 原発の基本的特徴と基本的問題点
3 日本の原子力政策の基本的特徴は何か
4 科学者の社会的責任論の系譜と一部の科学者の言説
5 原発利益共同体とその構造
6 何が今問われているのかー大学の研究・教育・社会貢献の現状を批判的に考える

以下,サワリを2ヶ所.
専門家が依拠する,その分野の基礎知識は,教科書やハンドブックに凝集されている.その知識体系は価値中立的に思われる.しかし,工学は「ものづくり」に縛られた学問で,「ものづくり」という目的性をもった知識の体系である. したがって,「ものづくり」の観点から事実や [経験的または理論的な] 法則が重要さに応じて取捨選択され,価値判断がなされている.だから,「ものづくり」の結果がどういう影響を社会に与えるか分からないときには必ずといってよいほど,目的である「つくる」ほうに傾いた結論になる.
物理学の体系自体には人間存在は通常不要であるのに対して,公衆衛生学の体系には地理的・生物学的環境,そして人間存在が必ず含まれる.この違いの認識なしに,「科学的には・・」の後に続く文章(言説)の意味と価値を真に理解することはできない.公衆衛生学と比べると,物理学ではより単純な真実を追及していく態度でのぞまなければならない場面が多いであろう.しかし,公衆衛生学では人間という複雑系の自然的または人工的環境の中の真実を追及していく態度で臨まねばならない.また,物理学で成功した数理的手法は公衆衛生学では必ずしも有効ではない.

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バッジ@ネオ・トロツキスト

「科学の目」を称揚する不破哲三氏の思想も含めて、いわゆる科学主義には問題が多い。科学主義は、本来、事実認識と価値認識の統一であるはずの科学的社会主義をも歪曲・矮小化する疎外の産物でしかないであろう。現代の課題が道徳や空想をもって科学を等閑視していたユートピアンたちを超克するようなものでは既にないのだから尚更である。
科学的社会主義は、都留重人氏なども指摘するように、本来「一人は万人のために、万人は一人のために」等々といった、事実認識に解消出来ない規範意識(価値認識)=社会「主義」=思想を構成要素とする思想であることを忘れてはならず、単なる事実認識の集大成に解消されてはならないのだ。
おまけに、科学には(社会科学だけでなく自然科学にも)バナールたちが指摘したようなイデオロギー性格が付随しており、資本制のような疎外された生産システムの下ではそれに順応的な媒介機能すら果たす。
実証主義との明確な区別すら自覚化し得ない20世紀的科学主義の反人類的性格は、究極の疎外であるクローン人間や人造人間の研究すら合理化し、人間不在の事実認識、ウェーバー的な事実と価値の分裂・敵対に開き直るに至る。

科学崇拝もまた、一種のカルト宗教であろう。
「社会主義は、科学になると共に芸術にもならなければならない」(芝田進吾)、「空想から科学へと発展した社会主義理論は、再び螺旋軌道を描いて科学から思想(文化)へと発展すべき曲がり角に来ている」(永井潔)ということではないだろうか。

なお、貧しい社会から産まれた旧ソ連や現在の中国の体制が、この種の問題でも批判的な見地とオルタナティヴを確立できなかった理由にもスターリンによる唯物論や社会主義の俗流化・歪曲の影が顔をのぞかせている。
人類史発展の究極の規定要因は、スターリンの言うような「物質的財貨の生産」などではなく、「物質的生活の生産、直接的生命の生産と再生産」(マルクス)なのであるから。


by バッジ@ネオ・トロツキスト (2012-10-05 14:58) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

「実証主義は不可知論に転化する」(宮本顕治)、「地べたを這う実証主義は相対主義を経由して不可知論に至る」(永井潔)。

『唯物論と経験批判論』でのレーニンによる批判を待つまでもなく、直接的事実の直接的採用の恣意性に無自覚な実証主義は、弁証法を踏まえた唯物論と峻別されなければならない。「具体的事実の具体的分析」を科学的社会主義の魂だとするレーニンの理論態度も、彼による実証主義批判が存在するにもかかわらず実証主義と混同されてきた(もっとも、ヘーゲル哲学との格闘の必要を痛感して『哲学ノート』を残したレーニン本人にも実証主義批判の未完の自覚はあったようだが)。

この問題は、20世紀実証主義論争(下掲参照)の中でも登場し、唯物論陣営においてさえ依然として曖昧な理解が残されたため、不破哲三氏のようなマルクス学徒が実証主義や実証科学の無批判的提灯持ちを努め続けることになる(「無主地の先占」法理の無批判的受容なども、法学的幻想と実証主義のアンサンブルと形容出来ようか)。

http://blog.livedoor.jp/zatsu_blog/archives/cat_630832.html

20世紀マルクス主義には、スターリンによる俗流理論化よりも、むしろ、関係主義と相互補完して両極間振動を続ける実証主義の広範な浸透の方にこそ重大な問題性があったと言えるのではないか?
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2012-10-05 20:26) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

山中さんのノーベル賞受賞に右も「左」も称賛一色のお祭り騒ぎのようなので、件の研究方向が孕む危険性に危惧もしている人間として、タイムリーなこのエントリーと紹介論文にそくして、さらに一言だけ書かせておいてもらいます。

>工学は「ものづくり」に縛られた学問で,「ものづくり」という目的性をもった知識の体系である. したがって,「ものづくり」の観点から事実や[経験的または理論的な] 法則が重要さに応じて取捨選択され,価値判断がなされている.だから,「ものづくり」の結果がどういう影響を社会に与えるか分からないときには必ずといってよいほど目的である「つくる」ほうに傾いた結論になる.

上の指摘は「工学」の制約の指摘として正しいと思いますが、それでも、科学信仰の問題性暴露という点ではまだ甘いように思います。今回ノーベル賞を受賞したIPS細胞研究のように、「ものづくり」目的以外の領域でも問題が存在しているからです。そこで以下2点。

1)まず、「ものづくり」の範囲外にある、IPS細胞による「再生医療」なるもののもつ危険性について。
IPS細胞による「再生医療」は、難病対策に絶大な貢献をする可能性をもつだけでなく、とんでもない危険性も内包しているように思います。IPS細胞の研究や技術開発も、ノーベル賞受賞のお祭り騒ぎが沈静化して冷静な検討が始まれば、「倫理の問題」と称されるような領域での議論を巻き起こすでしょう。IPS細胞の研究と活用は、臓器移植やES細胞利用より格段に問題の少ない方法にもみえますが、しかし、科学についての根源的な疑問を俎上に乗せる点では同様です。
アルツハイマーなどの脳疾患の治療にも活用出来るIPS細胞は、「頭脳の創造」に道を拓くだろうからです。のみならず、IPS細胞による「再生医療」技術が人間の臓器の全領域で適用可能となれば、人間の身体部位を「パーツ」視して憚らない人間たちによって、「人造人間」の可能性までが密かに試みられるようになるでしょうから尚更です。要素還元主義的や実証主義に浸透され切っている現在の科学界や医学界では、「パーツの集合体としての人造人間」にまで挑戦する可能性は否定出来ません。事実、IPS医療には、医学界や経済界からだけでなく、米軍関係などからも注目の眼が注がれているそうです。ロボット兵士が実現された次の段階は、「不死身の兵士」や「人造人間兵士」が妄想されるのではないでしょうか?
核技術への幻想さえ克服出来ない人類社会は、かかる事態に本当に人間的な対応を出来るのでしょうか心配です。
IPS細胞の研究にも工学以上の危険性が内在しているように思われてなりません。

2)次に、近代科学一般の問題性についてです。
工学信仰の問題性についての岡本さんの指摘は、問題の生息範囲を狭く限定しているだけでなく、分析の深さの点でもものたりません。現代の科学信仰の最奥には、岡本さんの指摘する工学の問題性やIPS医療の危険性に留まらない疎外が存在しているからです。
そもそも、実証主義や要素還元主義と深く結びついた近代の科学技術や西洋医学には、事実の不等価性・非同格性の確認の上に立った実証というような「実証」観はほとんどありません。マルクスの実証の、実証主義との根本的な違いにも無頓着に、実証主義を称揚するトンデモ唯物論者が闊歩する現在ですから致し方ないのかもしれませんが、実証主義への拝跪には相対主義の受容や価値論の放逐の危険性が伴います。基礎的な存在観をアトミズムとホーリズムに分裂させ両者間での振動を繰り返させる資本制社会では、実証主義には現状聖化思想も裏面化されています。「私的所有という事実」の安定的媒介の記述でしかない古典派の学に「労働の事実」を対置し切って対象把握を貫いたマルクスが事物の構造性と歴史性を統一的に捉え得たのも実証主義の制約に自覚的であったからですが、近代の科学や医学は事実選択の恣意性・被制約性や実証主義の限界性に無関心だと思います。
社会科学のみならず自然科学の領域においても、人間存在や歴史を捨象し切れない問題次元ではこの点は決定的だと思います。
実証主義化した近代科学や西洋医学が人類を導く先には、人間不在の、未来の欠落した世界が待ち受けていることが強く危惧されるのです。
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2012-10-13 17:49) 

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