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80万人と8千人−「民主主義」の定義の違い [社会]

銃規制を求めて24日にワシントンで80万,全米で100万のデモが行われたと,今日(26日)の新聞(毎日,赤旗)が報じています.他方,日本では公文書改ざん問題,安倍内閣総辞職で東京・新宿で8千人の集会(この件は毎日には全ページに1行もなし).問題の重大さに大きな差異はないのに行動を起こす市民に2桁の開きがあることは,やはり深刻に受け止めざるを得ません.どうしても「なぜか」と考えてしまいます.
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集会やデモの規模もそうですが,日本の市民が政治的に無関心の傾向が強いということは,街頭で原発問題や政治問題でのビラ配りや署名活動をしていてもはっきり感じられます.ビラを受け取らないだけでなく,「自分には関係ない」というような雰囲気,あるいは,「どこからか金をもらっている特別な集団」とでも思われているかのような・・・.(念のために付記しますが,私が関わる政治に関わる活動では,もちろんそのような例はありません.)

「なぜか」を考えるのはその対策を考えるためですが,とりあえず思いつくのは次のようなことです.

1)教育において政治教育が軽視・無視されている.その最大の効果は,「民主主義=選挙による1票」だけだと思い込まされていること.つまり,デモや集会は民主主義とはカンケイないと思わされている.変えていくには,自分が属する自治体の教育委員会に対する市民運動が必要です.

2)運動圏の側が直接行動(非暴力)を軽視・無視している.このため自らの「エンパワーメント」と「行為によるプロパガンダ」の手段を失っている.直接行動で最も重要なものは労働者のストライキだが,これさえも「一般の支持を失う,理解を得られない」というような誤ったレトリックで,自らの手足を縛っている*.

3)水戸黄門ドラマに見られるような文化装置に対する無批判性,鈍感さ(この永年番組を「道徳ポルノ」**と呼びます).人々の心を深いところで動かすのは,実体験以外では,ドラマや詩歌などの文化的なメッセージだけではないでしょうか.

フランス,フィガロ紙の東京特派員レジス・アルノー氏による「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ」という評論が東洋経済オンラインに出ていて,ネットで読むことができます.
http://toyokeizai.net/articles/-/213722

一部引用します.
スキャンダルそのものより悪いのは、政府と官僚がスキャンダルを隠蔽しようとしたことだ。だがその隠蔽よりさらに悪いのは、隠蔽に対する国民の反応だ。ほかの国々から見ると、森友問題によって日本社会がどれほど政治に無関心になったかが示されたことになる。
・・・・
「今の政府がこの事件を乗り切ることができたとしたら、もう日本の民主主義は終わりだね」と、日本に住むベテラン外国人ロビイストは嘆く。そして政府は実際に乗り切るかもしれないのだ。森友スキャンダルでは、首相官邸と国会周辺に小規模なデモが起こっただけだ。集会にわざわざ出掛けて怒りを口にしようという人の数は、多くてもせいぜい数千人だ。
数多くのニュース動画に映っている人を見ると、デモの参加者よりも警察官のほうが多い。仕事場での会話でも、日本人はスキャンダル全体に関し嫌悪感を抱いているというより、むしろ無関心のように見える。
(引用終わり)
ちなみに,フィガロ紙は右派ないし中道右派とされています.

* 行為によるプロパガンダ/ストライキについて
 http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2014-11-30#prba
** 「道徳ポルノ」再来を持ち上げる赤旗
 http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2017-09-12-1
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