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理工学部50周年記念誌 [仕事とその周辺]

DSC_8709rt.jpg「佐賀大学理工学部50周年記念誌」というのが届いた.分厚い立派な装丁.開けてみると自分の文章があった.すっかり忘れていたが,原稿を送ったのが1年ほど前だった.その時の原稿ファイルから,以下に転載します.表題は「理工」にしてはちょっと不似合いのようですが,内容はフィットしているはず.応援のクリック歓迎
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東京裁判は歴史知識の常識外か?

現在も非常勤として関わっているが,「科学と文化」という物理学専攻の大学院の授業を担当した関係で,社会的・歴史的な問題について学生と対話する機会が出来た.それまでは,そのような話題はせいぜい飲み会でするぐらいだったが,この授業の場ではシリアスなものとなる.また3.11以後は,原発問題が特に理系にとって無視できないテーマとなり,少なくとも放射線や核を扱う授業では,これをめぐる議論も「脱線」でもなく教室の中に収まるようになった.
 その中で,学生との社会的な知識のギャップに,はっきり言ってしまえば学生の社会的知識のなさに驚かされた.また,問題意識のギャップについても同様だ.
 原発に関しては,まず,現在稼働数がゼロになっていることを知っている学生が非常に少ない.あるクラスでは2割だった.原発に対する見方も,社会一般の世論調査結果と逆の様相を示している.一般では原発廃止が世論の多数だが,2年前のあるクラスでは,再稼働賛成派が7割,また将来も原発を維持すべきとの意見が6割だった.この結果は,原発運転状況についての知識のなさ,つまり世情の疎さと併せて見ると,この問題を十分に考え抜いた結果とは考えにくい.
DSC_8707q.jpg 「科学と文化」の授業では,原爆開発の歴史も扱っているが,そうすると当然第二次大戦についての基礎的な話も絡んでくる.その終結期の話題では,ナチスを裁いたニュルンベルグ裁判や,その裁判所規則が国際法に格上された「ニュルンベルグ原則」にも触れることになる.ニュルンベルグ裁判はほとんどの学生にとって初耳とのことだった.外国のことだからやむを得ないとしても,驚いたのは東京裁判をほとんど誰も知らないということだ.これは深刻な問題ではないか.話題を問わず,失敗をしでかして集団にデメリットをもたらした人を,週刊誌などが「A級戦犯」などと呼ぶことがある.この比喩の由来を知らないというだけの問題ではない.戦後日本というものを定義づけた重要な事件に無知ということだ.歴史の常識として,大化の改新や関ヶ原の戦いよりも重要度が劣るなどということはあり得ない.
 結局は,よく言われるように,高校の歴史の授業が現代まで進まないで終わってしまうためだろう.しかし高校で何を教えるか,何に重点を置くかは,「進学校」であれば大学入試の内容に決定的に影響される.と言うことは,問題は大学に跳ね返ってくるだろう.つまり入試で現代史を出せば,こんな問題はすぐに消滅する.
 現代史は当然現実の政治と密接に関連する.そのため政治権力はその分野の教育内容に干渉したがる.「従軍慰安婦」別名「性奴隷」の教科書記述をめぐる問題が良い例だろう.
 このため入試問題を作る側の大学も萎縮し,あるいは面倒がり,この重要な分野からの出題を避けているのではないか.その際,「高校でやっていない」というのが良い言い訳になる.このようなことを続けていたら,また「ポツダム宣言を詳らかに読んでいない」指導者が出て来かねない.
 大学や科学者コミュニティは福島原発事故の教訓をまだ十分に学びきれていないと思うし,これからまた新しい科学者倫理が問われる局面が増える恐れがある.それは軍事研究の問題である.経常研究費が減らされ,委託研究や外部資金として,軍関係のものが顕在化しつつある.アメリカの大学が軍事研究に組み込まれた道を,日本の大学が辿る恐れが強い.
 直接軍事研究にコミットしなくても,たとえ基礎研究であっても,科学者の「結果責任」は免れない.70年前に,原爆開発にたずさわったアメリカの科学者たちが原爆の対日使用に反対を表明した文書「フランク報告」の一節を紹介したい.
 「過去において科学者は,かれらの純粋な発明に対して人類が見つけた利用方法については,直接的な責任を否認することが出来た.我々は今日おなじ姿勢を取ることはできない.なぜなら原子力において我々が成し遂げたものは,過去のすべての発明よりも限りなく大きな危険に満ちているからである.」(日本語訳全文筆者のHP
 “大きな危険に満ちている”発明は原子力に限らない.社会のことに疎くては,責任ある科学者にはなりにくいだろう.
 映画「ハンナ・アーレント」(→関連記事)のおかげで「凡庸な悪」という言葉が市民権を得つつある.良心は個人の中にしか存在せず,たとえ「法人」と呼ばれて疑似人格が与えられているとしても,組織には良心が存在する場所はない.個人が組織の中でその良心を有効に作動できるかどうか,これは個人が持つ教養に大きく依存すると思う.
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