7月29日の記事「教基法擁護運動における現体制の組織と資産の活用」で,教育機関の長などの地位にある人に,その地位にふさわしい責任を果たしてもらうよう,手紙を書くこと(夏休みの宿題)を提案しました.私も自分の大学の学長に,数日前ほぼ次のような内容の手紙を出しました.

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拝啓
大学運営のご苦労,拝察申し上げます.

教育の憲法とも言える教育基本法が変えられようとしています.それも,教育の主体・権利を国民から国家へと180度転換させるという,国の教育のありかたの根本を変えるものです*.この問題について,学長という責任ある立場に鑑みて,是非とも何らかの発言をお願いしたいと思います.

もし政府案が秋の国会で可決されれば,東京都の「君が代・日の丸」の強制などに象徴される教育の場の「戦前化」ないし「北朝鮮化」が,全国に蔓延していくことが懸念されます.しかし問題は決して「君が代・日の丸」に限られるものではありません.教育法学会の会長声明*にあるように,教育内容一般が基本的に国の統制下に置かれてしまいます.

本学はもとより,ほとんどの教育機関はその規則に,「教育基本法に則り」という言葉を掲げてその運営を続けてきたはずです.しかしそのことが邪魔になる,あるいは障害になるなどということを聞いたことがありません.にもかかわらず,政府が改正を言い出せばそれに何ら異を唱えないというのは極めて不自然です.学則のこの条文はそんなにどうでもよいものだったはずはありません.また,学則にあるこの言葉は,単なる「国の法律には自動的に従います」という言明でもないと思います.本学の場合は特に,「教育基本法の“精神”に則り」と書き込まれているので,このことは明白です.

これまで,大学も含め教育行政や制度の様々な改変が行われましたが,その中には国立大学の独立行政法人化のように,学問の自由を侵すものとして,あるいは大学の研究活動を阻害するものとして,当初,大学関係者がこぞって反対していたものもあります.しかし,各大学首脳部,そして国大協は,その意志を貫くことなく,易々と政府の法案を容認してしまいました.この問題に限らず,国立大学首脳部は,自らに不利な政策に対して最後まで毅然とした態度を示したことがありません.

その理由は大学関係者にとっては周知のことで,「文部科学省から不利な扱いを受けるかも知れない」という暗黙の脅しの効果によるものです.「大学の生き残りのためにはやむを得ない」という「論理」によって,十数年前には信じられなかったであろうところまで,大学は後退して来たのです.

政府との間での何らかの意見の対立が,実際に何らかの「リスク」を生じるということもあるかも知れません.(ただ,鹿児島大学の田中前学長は,独立行政法人化反対の“急先鋒”でしたが,そのことで自分の大学が何ら不利益を受けたことはないと断言されていました.)しかしその「リスク」と,教育基本法の「改正」によって,この国の教育界が,というより社会全体が,いかに貴重なものが失うのかというリスクとを秤にかけなければなりません.未来の子どもたちとこの国の将来のことを考えたとき,私には,教育基本法を失うことと比肩しうるような損失やリスクというものが──戦争や内乱による多くの生命の損失以外には──全く想像出来ません.かりに何らかの将来計画やそのための予算が犠牲になるとしても,そのリスクが沈黙を正当化するでしょうか?

また,実際にリスクの存在が証明できるわけでもないでしょう.(文部科学省は絶対に証拠をつかませないでしょう.)私は,多くの場合「リスク」は臆病さをごまかすために言われていると疑っています.さらに,仮に存在するとしても,多くの国立大学が連携することで(そのために国立大学協会があるのではないでしょうか?)その「リスク」も軽減され,ないしは消失するでしょう.「リスク」を危惧する人は,そのような道をこそ追求するべきではないでしょうか.

どうか,繰り返しになりますが,学長という重責に照らして,是非とも「発言する責任」についてご考慮願いたいと存じます.草々

2006年8月X日

* 「180度の転換」の改悪であることは論を待たないと思いますが,私が下手な説明をするよりも教育法学会の会長声明などをご参照下さい.
http://homepage2.nifty.com/1234567890987654321/kyokihou.index.htm
→[2020/8/14追記] リンク切れのため別の転載サイトへ
この、特定の国名を使う比喩は全く不適切でした。特に、日本と朝鮮との過去の歴史を考えれば、なおさらそうでした。(2020年11月21日追記。今日この記事への閲覧が10回以上あったので見直してみました。)