丸善の一般向け物理の雑誌「パリティ」7月号に,ソ連の物理学者ランダウに関する文章がある.ランダウと言えば物理の関係者なら誰でも知っている超有名人で,ノーベル賞受賞者でもあるが,姪がその素顔を描いている.その中の「ダウは憶病者だったか」の大部分を切り抜いて紹介する.もう一ヶ所,スターリン時代に反政府文書に署名して逮捕された下りも興味深いが,これは次回に.

 印象的な彼の黒い瞳は,何を見つめていたのか
 ランダウ:姪からみた人物像
 E. リンディナ(A. ギル) 和田正信 訳

http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/magazine/parity-back/parity2005/2005_07/507_cont.html

ダウは憶病者だったか

 ダウは政治的に微妙な問題を避けようとするときはいつも,くり返し「私は臆病者です」と,ユーモアのある滑稽な抑楊でいいました。ダウが何を考えているのか,何を暗示しようとするのか理解するのは不可能でした。いろいろな事実に照らして,ダウは,あらゆる自由思想が抑制され,あらゆる自由思想家が迫害される全体主義国家に住むことを完全に理解する自由思想の人物でした。しかしながら,1938年の悲惨な牢獄の経験にもかかわらず,ダウは科学と政治に関する自分の見解を直接に,厳しく述べる勇気がありました。彼は自分の思想一一当時の危険思想一一を,ほんの16歳の学校の少女であった私に話すことも怖れていませんでした。彼は字宙が有限であると公言してはぱかりませんでした。それはマルクス主義の教義に反することだったのです。彼の大胆さを示すこのような例はほかにもたくさんあります。

 1950年代の初期に,ダウが原子爆弾の研究計画に従っているとき,彼にボディーガードが付きました。ある物理学者は,これは名誉なことであり,卓越の証拠と考えましたが,ダウは“ならずもの”とよんだボディーガードを拒否しました。秘密讐察(KGB)の忠告に服従しないことは,彼にとってたいへん危険な行動でした。・・・(中略)・・・ボディーガードはけっして顔を見せることがなく,ダウは研究に出かけました。ダウは原子爆弾の研究が嫌いで,その研究を最低限にするよう全力を尽くしたことは注目すべきことです。

 カピッツァは原子爆弾の研究を拒否したとき,解任され,モスクワ郊外の彼の別荘に1946年から1954年まで追放されました。ダウは反抗的に月に1回,この“不名誉”な科学者を訪ねる厄介なひと握りの人たちの1人でした。当時そうするには勇気が必要でした。政治的に失墜すると,その人をすぐに無視したり,その家族を避けることが通常だったからです。

 ここでほかの例を挙げます。ダウは1938年にともに逮捕され,そして追放されたルーマを長年にわたり援助し統けました。毎月,ダウは彼に為替を送りましたが,公然とそれを行い,隠し立てをしようとしませんでした。ダウと追放から戻ってきたルーマとの再会を偶然目撃して,私はこのことを初めて知りました。ダウは自分が臆病だと考えていたとすると,彼の男気ある行動は白分に課したその基準がいかに高いものだったかを証明するものでした。