私は5,6年前から,「水戸黄門ドラマ道徳ポルノ説」というのを流布していますが,これで盛り上がっているサイトを偶然見つけました.たいへん有り難いことなのですが,しかし残念ながら趣旨がほとんど理解されておらず,中にはあたかも私が時代劇そのものを嫌っているかのような書き込みもありました.そこでオリジナルに少し文章を追加しました.時代劇の秀作である「七人の侍」との比較です.次をご覧下さい.
 http://ad9.org/pegasus/peace/crimefornote.html#Anchor455369
2020/9/29追記 ジャンプしなくてもいいように、以下にそのエッセンス部分を転載します。

「水戸黄門」ドラマに対する「勧善懲悪」や「庶民の偶像」などという見方はあまりにも皮相で、このドラマの持つ強烈なイデオロギー性に盲目すぎます。このドラマが視聴者の意識下に送り込むメッセージは「最高権力は究極的には善である」「中央権力には決して逆らってはならない」というものです。この「テレビの中高年への悪影響」は計り知れないものがあると思います。長年にわたって、国民の権力への従順さを培うことにおいてどれほどの力を発揮したか分かりません。

この種のドラマでの荒唐無稽さは大いに結構ですが、何らかの心の糧となりうるドラマであるためには、最高権力の礼賛(このドラマの悪玉は「中間管理職」)などであってはならず、そこに某かの反権力なり反骨の精神が込められていなければなりません。「水戸黄門」はその正反対です。最高権力の権威(つまり印籠)に依存した「道徳」と「懲悪」はあまりにも安易です。「ソフィーの世界」の著者ヨースタイン・ゴルデルは、カルトの教義の安易さを「哲学ポルノ」という言葉で表現しましたが、これに倣えば「道徳ポルノ」というのが妥当な評価だと思われます。

超越的な存在によって庶民が救われるという物語形式は世界各所にあると思いますが、それが支配権力の別働隊であるというのはあまり聞きません。

このドラマの「イデオロギー性」は、たとえば時代劇の名作「七人の侍」と比べるとよく分かるでしょう。この黒澤の作品では、農民たちは自分たちの力で、侍を「利用して」、自分たちの村を守ります。つまり自立、自治の精神が読みとれますが、これに対して「水戸黄門」は、「最後にはお上が助けてくれる」という権力への依存心を刷り込むだけのものと言えないでしょうか。
なお,この(ジャンプ先の)文章の出だしは「しんぶん赤旗」のTV・ラジオ欄批判になっていますが,その後は同紙に「水戸黄門」関係の記事は見かけないようです.
 いわゆる「大学改革」問題を論じる中で上の説を引用した拙文「『脳内リベラル』からの脱却」もお読みいただければありがたいです.
 http://ad9.org/pegasus/UniversityIssues/essai.html

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「7人の侍」との対比、毎日新聞2012年2月4日付け記事