トリチウムは水素の放射性同位体、つまり放射線を出す水素で、化学的性質は普通の水素と同じなので、酸素と結びついてトリチウム水(記号はHTO)となる。これまた普通の水(H
2O)と化学的にはほとんど区別できない。汚染水中の他の放射能の多くが化学的な方法で、つまりALPSで除去されるのに対して、トリチウム水が除去できないのはこのためである。つまり水を水から分離することはできない。力づくで分離しようとすれば、ウラン濃縮と同じことを、つまり原子の重さで分けなければならず、桁違いの手間と費用がかかる。しかし、H
2OとHTOでは蒸気圧がわずかに異なるため、これを利用して分留を繰り返す方法も提案されている[2]。
トリチウムの出す放射線は低いエネルギーのベータ線(電子線)なので、ベクレル当たりの線量(単位はシーベルト)は小さくなる。線量は人体など物体が受け取るエネルギーに比例する量だからである。そこでトリチウムの人体への影響は小さいなどと言われる。しかしトリチウムが生体内の重要な分子、例えばDNAなどに組み込まれた場合には複雑なことが起きる。つまり、放射線を出したあとヘリウムに変わるので、「水素」として組み込んでいた分子を壊す。(他の放射性物質、例えばセシウム137の場合はそのような話は聞かない。)このような影響のことを「元素転換効果」と言う。例えば、DNAの二重らせんの二つの階段どうしを繋いでいるのは水素結合、つまり水素原子を介しての結合だが、これがその場所で切られる。すぐに修復されれば問題ないが、100%ではないだろう。
しかし被害はそれにとどまらない。その直前に出たベータ線というミクロの砲弾の効果がとうぜん加わるが、ここでベータ線のエネルギーが低い(小さい)ことが逆効果、つまりより事態を悪くする。ベータ線、アルファ線のような電気を帯びた粒子が物質中を走るとその跡にイオンを作るが、その濃度はそのスピードが遅いほど、つまりエネルギーが低いほど濃くなる。つまり細胞へのダメージの程度は大きくなる。九州新幹線・新鳥栖駅のすぐ側にある重粒子線がん治療センターでは、炭素イオン粒子を光速の7割以上に加速してがんの部位に打ち込むが、その粒子の止まりぎわが病巣に一致するようにエネルギーを選ぶ。そこで集中的に細胞にダメージを与え、それ以前の組織には害を少なくするためである。トリチウムのベータ線では、出てすぐがいきなり「止まりぎわ」で、つまりこれを抱え込んだ細胞自身が一番ダメージを受けやすい。つまりこの細胞は、先に述べた「元素転換効果」とのダブルパンチを受けることになる。
このようなダブルパンチ − 業界用語では「2ヒット効果」と呼ばれる − が特に危険なことは、ヨーロッパ放射線リスク委員会(ECRR)の 2010 年勧告が指摘している。放射線のリスク評価では国際放射線防護委員会(ICRP)が権威を揮っているが、3.11の後の原子力規制委員会設置法制定の際の参議院附帯決議はECRR勧告の尊重も謳っている。
もう一つ気になる点は、トリチウムの生物濃縮の問題である。化学的な性質が通常の水素と全く同じであれば、他の原子・分子との反応も全く同じはずで、生体内でも何らかの選択的な反応が起きるはずがない。しかし元・純真短期大学の森永徹氏によると[3]、この生物濃縮が起こっているとのことである。トリチウムは水素の3倍重いので、原子としての熱運動のスピードも遅く、トリチウム水分子(HTO)の分子振動のパターン(モード)や固有のエネルギー(スペクトル)も当然H2Oとは異なるはずだ。これが化学反応に影響してもおかしくない。図は構成原子の重さが球の体積に比例するように描いたHTO分子のイラストである。いかにもバランスの悪そうなヤジロベエだが、その振動や回転はH2Oよりもずっと複雑なはずだ。すでに解析はされているだろうが、専門外なのでリサーチまではしていない。
体内に取り込まれたトリチウムが白血病を起こすことは動物実験で証明されているが[4]、実験では高濃度のトリチウムが使われる。しかし放射線による白血病やがんの発症では「しきい値なし線形モデル」、つまりいかに低線量でも影響はその線量に比例して起きるとされるので、大勢が被爆すれば統計的に必ず被害が出る。薄めればいいと言うものではないのだ。これは件のICRPも認めるところである。実際、上記の森永氏の研究によれば、玄海原発では実際にそれが起きている可能性がある。私自身の経験でも、数年前、玄海町で脱原発のチラシを配っていて、自分が白血病だと言う女性に遭遇した。
冒頭の、汚染水の海洋放出の問題に戻ろう。ICRPには"ALARA"原則と言うのがある。As Low As Reasonably Achievable、つまり、合理的に達成できる限り被爆は最小限にせよ、と言う原則である。タンク増設など、環境に放出しないですむ合理的な方法があるのだから、海洋放出はこの原則にも反すると言えるだろう。
(先月、あるミニコミ紙に寄稿した文章に少し手を加えたものです。)
[1]「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会 報告書」、2020年2月10日
[2]「福島第一原発、処理水のトリチウムは分離できる?」朝日新聞2020年6月22日
[3] 森永徹
「福島原発処理汚染水海洋放出の危険性」第61回日本社会医学会総会(大阪) 2021年3月。福岡核問題研究会のサイトにも転載予定。
[4] 森永徹
「玄海原発と白血病の関連について」図1参照、第 56 回日本社会医学会総会(2015 年 7 月 25・26 日、久留米大学医学部。
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*トリチウムの問題については、他にもこのブログに多数記事を書いています。左の検索ボックスに「トリチウム」を入れて下さい。
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筆者の関連記事:
「トリチウム汚染水放出問題について」(2020年11月28日、
福岡核問題研究会での発表資料)
追記:大量の低濃度の放射性物質による被曝の被害の評価は「集団線量」によらなければなりませんが、最近、この言葉、概念自体が抹殺されています。この概念とICRPについて書いた記事
「ICRP2007報告書への疑問」も参照下さい。
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