「セクシャルハラスメント」という言葉が発明されてから,この現象がこの世に「存在」するようになった.この言葉以前でも,人間性が今と違っていたわけではないので,同様の行為をされた人は今と同様の不快感を持ったはずだ.しかしそれがすぐに「悪」と結びつけられることはなかった,あるいは少なかった.単に言葉だけの問題ではないかも知れないが,この例に見られるように,特定の言葉のあるなしで人間の行動は大きく変わる.

「景気」と「自由」という言葉について同様の考察を少しばかり.

1.「景気」
「景気が悪い」と言われる.確かにその通りだが,「景気」というのは会社など「組織」に関することで,ダイレクトには「個人」と関係がない.ところが景気が良くなることがすべての前提であるかのように言われる.

しかし景気が悪くても「個人」はそこそこゆたかに暮らせるというシステムも可能かも知れない.医療や教育が無料であるなど社会保障が充実していれば,たとえ不況でも,増えた休日で余暇を余分に楽しめるかも知れない.そのような社会システムが可能なのか,可能ならどうすれば良いのか,それを探求すべきではないのか.そのためにはまず,組織の回転が良く懐も温かいかどうかを示す「景気」に代わる,「個人」や「家計」が豊かかどうかを表す言葉(「家景気」?)が発明されなければならないのではないか.

従来の「安全保障」という言葉が国家に関するものであったのに対し,「人間の安全保障」という言葉が発明されたことで,この分野で新しい視野が開けたのと同じである.
応援のクリック歓迎 (1日1回まで)

2.「自由」
「自由」という言葉は,経済活動の自由と,言論,表現,報道,思想の自由という,人間の知的・精神的活動の両面で使われる.しかしの二つには,共通する点がなないわけではないが,社会的な意味では,むしろ全く別物と言っていいほどの距離があるのではないか.

経済活動は社会の富の配分に関わるので,その偏在を防止するためにこの「自由」への権力による規制が必要なのは自明である(野放しにされた“新自由主義”による災いで学んだばかり).他方,精神活動に関わる「自由」は,直接富の配分とは関係がない.したがって原則として権力による規制にはなじまない.

このように社会的に全く違った機能を持つ二つの「自由」におなじ言葉を当てはめていることが大きな間違いではないのか.うまい言い換えは思いつかないが,とりあえず後者を「第一種の自由」,前者を「第二種の自由」と呼ぶことにしては?