この社会を支配しようと思う者は言葉を重視する.そのための機関が「電通」である.これに対し,対抗する陣営はこの要素に無頓着過ぎる.一つの例が「新自由主義」という言葉を未だに平気で使っていることだ.批判し,貶めたいのならば,汚名を,スティグマを与えなければならない.ところが,この呼び名の「新」も「自由」もともにプラスイメージの言葉である.批判するつもりでこの言葉を一回使う毎に,このイデオロギーを自動的に賞賛し褒めそやすことになるのである.「新放任主義」でも「資本主義過激派」でも何でもいいから,とにかくこの美名で呼ぶことだけは避けなければならないはずだ.(私は「資本原理主義」( capitalistic fundamentalism† ) という呼び名を提案したい.††)
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左派・リベラルの運動に言葉や「目立つこと」を軽視する傾向がある原因の一つに,次の論語の言葉があるのではないかと思っている.

 巧言令色鮮仁 (巧言令色少なし仁)

高校の漢文で習うこの「格言」が,人々の心の深いところに染みついていて,目立つのは下品なこと,悪いこととされ,目立たないことが良いこととされる風潮ができあがっているように思う.

もちろん,製品や企画の売り込みなど実利につながる活動では,そのようなことがないどころか,街頭のけばけばしい看板を見れば,まさにこの格言の重要性さえ感じるかも知れない.しかし私的な利害と無縁の社会的運動では,つまり「仁」に関する活動では,この格言の(論理学で言う)対偶,すなわち「仁多ければ巧言令色なし」*という心理が底流にはたらくのか,活動家は,自分たちの活動がどれだけ目立っているかということを気にすることが少ない.少ないというより,全く気にしていないのではないかとさえ思うことがある.特にメディア露出に対して淡泊過ぎる.

集会がどれほど大規模でも,それがメディアに取り上げられなければ,社会へのインパクトという意味では「なかったに等しい」のであるが,これを主催者はあまり気にしない.したがって放送局に対する抗議やデモなど思いもよらない.(他方では,金儲けのためならその目立ち方がいかに品格に欠けようと気にしない.)

これに対し,私が係わっているイギリスの反核運動の例では,“visibility” (目立ち度と訳すべきか)という言葉で,目立つことを重視する.

そこで,「巧言令色鮮仁」への“対抗漢語”を提案したい.

 以巧言令色為仁 (巧言令色を以て仁を為す)

上とは全く趣旨が異なるが,次の言葉も気になる.

 「継続は力なり」

何となくもっともらしいが,この言葉で,工夫のなさや,効果や現実への鈍感・無関心さなどが隠蔽され,「単なる継続」が正当化される.ある団体の,それこそ「骨細」と言うしかないような志の低い方針案の文書にこの言葉が使われていた.
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† 縮めて"capitamentalism".
†† 別案:「極端資本主義」,extreme capitalism.
* 実際,もとの命題の「裏」に当たる「剛毅木訥近仁」(剛毅木訥仁に近し)という言葉がある.