安倍首相がようやく辞めるらしいので,末期の彼を批判する言葉として使われ,したがって彼とともに消えるであろう「空気が読めない」という言い方について,時季はずれにならないうちに書いておきたいと思う.

「空気が読めない」のも困るが,もっと困るのは,空気に支配されることだ.むしろこのことの自覚の方が重要だ.読めるか読めないかは二の次でいいのだ.

右派の物書きとしれ知られる山本七平は,「空気支配」という言葉で,論理性よりもその場の空気に流されてしまう日本人の心性に警告を発している.この警告の重要性は少なくなるどころか,ますます必要なものとなっていると思われる.次の記事をぜひご覧頂きたい.

1) ウイキペディアの「空気支配」の項 (下に転載)
2) Academia e-Network Letter 発刊1年、「空気支配」に抗して(編集発行人)

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本日更新した過去記事:佐賀北高校,優勝

(以下,ウイキペディアより転載)

空気支配

日本では、物事の判断が場の空気に支配される事象がしばしば見られる。 山本七平は、空気支配の例として戦艦大和沖縄出撃を挙げ、出撃は無謀であると判断するに至る細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、明確な根拠の全くない出撃が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である」と批評した[8] また、2005衆議院議員総選挙自民党が大勝した原因の一つとして、小泉純一郎首相(当時)が作り出した空気の支配を挙げる者もいる[9]

近年では、学校社会において空気支配が蔓延している。 子供たちは場の空気に怯え、設定されるキャラに戦々恐々としている。学生が新しい「場」に入ったときに、この「場」が強制してくるキャラを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、設定されたキャラを演じつづけられる限りは、彼はそれなりに人気を得たり、居場所を得ることができる[10]。しかし、彼がこうしたキャラを演じるのを放棄した場合は、いじめの標的になるか、逃避行動としての不登校を選ぶことが多い。

場の空気を読んだ上での振舞い

(場の空気に従う方向の選択は)、「場の空気」が道徳的、社会通念的に肯定される価値観に合致、もしくは自己の価値観から見て許容限度を越えない場合にのみ当てはまる[要出典]。「場の空気」がかかる場合に当てはまらない場合、「空気」に従うべきではない[要出典]。例えば、「場の空気」が特定人物の排除、いじめを指向していた場合、かかる「空気」に従うべきであろうか[要出典]。また企業において違法行為があり、企業内の「空気」がかかる行為を隠蔽する方向であった場合、かかる「空気」に従うべきであろうか[要出典]

「場の空気」を絶対視し「空気を読めない」者を排除する行為は結局は、排除行為を行う「空気を読める」人物に主体性が無く、周囲に流される存在でしかない[要出典]ということを示しているのである。