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『人新世の「資本論」』で読み落とされているかも知れない重要箇所 [メディア・出版・アート]

51GKxXyd2IL._SX308_BO1,204,203,200_.jpg今さら、と思われるかも知れませんが、ベストセラーとなっている斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(2020年9月発行)で、読んだ人の間であまり論じられていないかも知れない重要箇所について書きます。実は私も通読したとき、あまり意識しませんでしたが、日本共産党の元衆議院議員・佐々木憲昭氏のフェイスブックに、「気候危機の打開戦略」を斎藤幸平氏が紹介という記事があり、そのコメント欄でのやり取りをきっかけに読み直したところ、大変大事なことが書かれていると思いました。左翼やリベラルで国政の変革を議論するとき、たいてい「とにかく選挙が大事」という言い方がよく聞かれますが、その背景にある思考法の問題点の指摘で、斎藤氏は「政治主義」という言葉でこの傾向を批判しています。(実は私がこのブログでも繰り返し主張していることでもあります。我が意を得たり、と思いました。末尾に代表的ないくつかの記事へのリンク。)
その部分を引用します。213ページ後ろから3行目からです。
政治主義の代償--選挙に行けば社会は変わる?
 「政治主義」とは、議会民主制の枠内での投票によって良いリーダーを選出し、その後は政治家や専門家たちに制度や法律の変更を任せればいいという発想である。カリスマ的なリーダーを待ち望み、そうした候補者が現れたら、その人物に投票する。変革の鍵となるのは、投票行動の変化である。
 だが、その結果として、闘争の領域は、必然的に選挙戦に媛小化されていく。マニフェフェ ストや候補者選び、メディアやSNSを使ったイメージ戦略などだ。
 その代償は明らかだろう。パスターニはコミユニズムを掲げている。コミュニズムとは、本来、生産関係の大転換であ。しかし、パスターニのコミユニズムは、政治・政策によって実現される「政治的」プロジェクトのため、生産の領域における変革の視点、つまり階級闘争の視点が消えてしまうのだ。
 それどころか、ストライキのような「古くさい」階級闘争やデモや座り込みのような「過激な」直接行動は、選挙戦におけるイメージダウンや共闘にとっての障害になるという理由で、政治主義によって、排除されるようになっていく。「未来に向けた政策案は、プロに任せておけ」。そんな考え方が支配的となるのだ。
 こうして、素人の「素朴な」意見は、専門家の見解がもつ権威の前に抑圧されることになる。政治主義的なトップダウンの改革は一見効率的に見えるが、その代償として、民主主義の領域を狭め、参加者の主体的意識を著しく毀損する。
 実際、政策重視の社会変革は、スティグリッツのような経済学者のやり方である。ジジェクのスティグリッツ批判を思い出そう(130頁参照)。議会政治だけでは民主主義の領域を拡張して、社会全体を改革することはできないのだ。選挙政治は資本の力に直面したときに必ずや限界に直面する。政治は経済に対して自律的ではなく、むしろ他律的なのである。
 国家だけでは、資本の力を超えるような法律を施行できない(そんなことができるならとっくにやっているはずだ)。だから、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要がある。
ところで、残念なことにこの本には索引がありません。そこで、目次を以下にコピーします(上で引用した箇所を太字にしています)。これを検索することで索引の代わりとは行かないまでも、その役目を補えると思います。ちなみにこの目次の中に「階級」という語はありますが、「階級闘争」はありません。上で引用した中にあります。

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