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「日本人はおとなしく従順」という集団自己暗示 [社会]

1401577.gif11/29追記:末尾に江戸時代の一揆についての歴史の本からの転載を追記。
1401577.gif2019/3/30追記:後継記事で久留米藩大一揆について書きました。
1401577.gif2019/8/2追記:久留米藩大一揆をテーマにした小説「天に星 地に花」に関する記事 その1その2その3
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日本人は(政治的に)おとなしい,従順だ,という集団的自己評価が言わばこの社会で「定説」となっているようだ.だいぶ前だが,本多勝一氏も「従順なヒツジ遺伝子S型が七割を占める体制順応民族・日本人」などと述べている.しかし(あるかないかわからない)遺伝子を政治文化のレベルに結びつけるのは,血液型で性格を判断するのと五十歩百歩だろう.むしろ,そのような「自己評価」や言説それ自体が日本人をおとなしく従順にしているという,一種の自己暗示の面も無視できないだろう.

 実際,我々の祖先が「体制順応」的でなかった証拠として,多くの一揆の史実がある.北部九州地域に限っても,1754年の「久留米藩大一揆」,1771年の「虹の松原一揆」がある.いずれも一揆側が部分的にせよ要求を勝ち取っている(後者は完全非暴力である).ところがこのような歴史は学校教育では全くと言っていいほど教えられないため,上記のような「大人しく従順」という説を信じ込み易いのだろう.先週土曜日のパリ・シャンゼリゼ大通りを占拠した「黄色いベスト」,我々は彼らの行動をただ指をくわえて見ていることしかできないのだろうか?しかしこの国の数多い一揆の歴史を見れば,もしかするとそれに甘んじなくてもいのかも知れないのだ.

 虹の松原一揆は歴史の本で知っていたが,この久留米藩大一揆は,久留米の原住民でありながら,つい先日の,中学校PTAのOB飲み会で出た話で初めて知った(このOB会はもう20年以上も続いている).そこでは安倍内閣にも話題が及んだが,参加者9人の全員が「不支持」で一致した.つまりこのサンプルでは内閣支持率は零パーセントだった.メンバーの年齢分布は当然偏っているが,政治的傾向は,左右の座標軸でどちらかに偏っているとも思えない.ということで,大手メディアが流す40%を超えるような内閣支持率というのはフェイクではないか思われる.

 メディアの報道が大勢として政治的に大きく歪められているというのは,政治リテラシー・メディアリテラシーを自認する市民にとって常識だが,同じ大手メディアでも世論調査の結果だけは100%信用できると考えるとしたら,それはむしろ不自然だろう.
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一揆に関する歴史の本の記述
虹の松原一揆
一七七一年(明和八)七月には、唐津藩(佐賀県)で一揆が起こった。
この八年ほど前、唐津藩に新しい領主水野氏がやってきた。その水野氏は、新しい領地に対して、きびしい政策を、次々に打ち出した。収入をふやし、藩の財政を豊かにしようとしたのである。
ところが、そのやり方がたいへんきびしかったこと、それまでの習慣をいっぺんに崩すようなものであったことなどのために、農民はいっせいに立ち上がった。
ただ、その後の様子は、それまでの一揆とはずいぶんちがっていた。鍬や鎌をとって役所へおしかけたりするというのではなく、一万五千余りの人々が虹の松原と呼ばれる広大な防風林の中に集まり、藩の役人と堂々と話し合いをはじめたのである。
藩の役人も、その堂々とした態度には驚いた。もしここで農民をおこらせれば、大庄屋に率いられた農民が、いっせいに城下におしかけるかもしれない。
ついに農民の要求はすべて受け入れられ、事件は決着した。
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古川清行「スーパー日本史」,講談社,1991年,p.439.
同じページの欄外には、次のような江戸時代の一揆についての概説があります。
> 江戸時代の百姓一揆
最近の研究では百姓一揆といわれるものは、江戸時代を通じて約三千二百件も起こっているといわれている。江戸初期には、戦国時代の土一揆のように在地の土豪などが指導したものがみられるが、このような形の一揆は間もなく消滅し、名主など村役人が村民を代表して直訴などの非合法な訴願運動を行うものが増えてきた。
百姓一揆の要求は、年貢の減免、代官など役人の交替、専売制反対、農民に課せられた年貢以外の賦役に反対するものなど、多くは経済的な要求が主になっていたが、時には領主の国替え反対などというものもあった。
江戸時代の中頃からの百姓一揆は、全藩一揆といわれるように、大規模で組織的なものが多くなった。特に天明の大飢鐘の頃から、一般の農民層まで巻き込んだ惣百姓一揆と呼ばれるものも頻発するようになった。
久留米藩大一揆についてはは「コトバンク」に故・長野暹佐賀大学名誉教授の記述があります。
https://kotobank.jp/word/久留米藩大一揆-1528201
以下に転載:
久留米藩大一揆(読み)くるめはんだいいっき
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
久留米騒動ともいう。筑後(ちくご)国(福岡県)久留米藩内の一揆としては、1728年(享保13)の上(かみ)三郡一揆、1754年(宝暦4)の全藩一揆、1832年(天保3)の竹野(たかの)郡打毀(うちこわし)などがある。このうち、1754年の一揆は、藩の人別銀賦課に端を発し、全藩的規模の大闘争に発展、近世の農民一揆のなかでも典型的な全藩一揆であった。参加者数5万人、多少とも闘争にかかわった農民は16万人に達したといわれ、藩側との武力抗争も行われた。大庄屋(おおじょうや)、庄屋への打毀60余軒に及び、河原での大結集から鎮圧されるまで蜂起(ほうき)は2か月も続いた。その結果、死刑16人という犠牲を出したが、人別銀廃止のほか貢租徴収制度の改善など、領民の要求もかなり実現させた。これは、幕藩制下の階級闘争が村落の規模を越えて質的に転換したことを示した大一揆であった。[長野 暹]
『鶴久二郎・古賀幸雄編『久留米藩農政・農民史料集』(1969・私家版)』
12/4追記:新提案の政治メカニズム図式
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