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日本語の歌詞で歌われたシューベルト歌曲 [趣味]

1401577.gif10/6: 訳詞者コメントブロガーコメントを追記
1401577.gif11/10: 「その2」はこちら
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matumototakashi-t.jpgシューベルトやシューマンの素晴らしいロマン派の歌曲が日本語の歌詞で歌われることは殆どない.歌曲集「白鳥の歌」の“セレナーデ”や同じく「冬の旅」の“菩提樹”ぐらいだろう.しかし歌曲というのは歌詞の意味とメロディーの両方で心に訴えるものだから,ドイツ語で歌われた音源では広くファンを獲得することは出来ない.こんな素晴らしい作品群のファンが,いわゆる「クラシック愛好家」に限られているのは,本当にもったいないことだと長年思っていた.自分自身で「歌える訳詞」を作ろうかと思ったほどだ.

ところが,先日NHK-FMの「きらクラ!」(9月9日か翌日の再放送)を聴いていたら,なんと歌曲集「白鳥の歌」の “ドッペルゲンガー”の日本語バージョンをやっていた.訳詞の松本隆氏もゲストとして出演していた.松本氏は数々のヒット歌謡曲の作詞者ということだ.

早速,この春出たばかりの「白鳥の歌」と,数年前に出ていた「美しい水車小屋の娘」を地元のタワー・レコードに注文した.ほどなく入荷し,早速聴いてみた.もちろんスマートホンにも取り込んだ.

結果,「白鳥の歌」は今ひとつ,「美しい水車小屋の娘」は上々,と言ったところ.前者で特に歌詞が気に入らないのが第7曲の “Abschied”(別れ)だ.繰り返される “ade!” を “じゃあね” と訳している.濁音で汚いし,軽すぎる.“ade” は多分フランス語の “adieu” と同じ語源で,「神に委ねる」,つまり永遠の別れを意味すると思われるからだ.(末尾に原詩と訳詞) カタカナで「アデー」のままにするか,「さら・ば」とすればいいと思う.最後の「ドッペルゲンガー」(影法師)ではカタカナのままにしているのでもあるし.

もちろん訳詞では原語のリズムや雰囲気は再現出来ないし,「押韻」はまず「翻訳」不可能だ.それでもまずは「意味の分かる」歌を聞いて耳に入り,それでは原語で聞いてみよう,というルートもあるはずだし,クラシック歌曲のファンを絶対に増やせると思う.特にロマン派のリートはとても分かりやすいのだから.

“Abschied”の原詩と,松本隆氏の問題の訳詞を並べる.

7. Abschied
Ludwig Rellstab

Ade! du muntre, du fröhliche Stadt, ade!
Schon scharret mein Rößlein mit lustigen Fuß;
Jetzt nimm noch den letzten, den scheidenden Gruß.
Du hast mich wohl niemals noch traurig gesehn,
So kann es auch jetzt nicht beim Abschied geschehn.

じゃあね
じゃあね いい街だったよ じゃあね
馬が蹄をこするよ
別れの酒受けてくれ
涙知らずのあの娘は
哀しい顔を見せない
だから笑顔でさよなら

Ade, ihr Bäume, ihr Gärten so grün, ade!
Nun reit ich am silbernen Strome entlang.
Weit schallend ertönet mein Abschiedsgesang;
Nie habt ihr ein trauriges Lied gehört,
So wird euch auch keines beim Scheiden beschert!

じゃあね 緑の庭たち じゃあね
川沿いの道走って
声高らかに歌うよ
暗い調べは嫌いと
聴きたがらないあの娘に
哀しい歌は歌えず

Ade, ihr freundlichen Mägdlein dort, ade!
Was schaut ihr aus blumenumduftetem Haus
Mit schelmischen, lockenden Blicken heraus?
Wie sonst, so grüß ich und schaue mich um,
Doch nimmer wend ich mein Rößlein um.

じゃあね 優しい少女よ じゃあね
花の匂いの家から
娼びるまなざし投げられ
ちょっと会釈はしたけど
手綱をきっく持ち
引き返しはしない

Ade, liebe Sonne, so gehst du zur Ruh, ade!
Nun schimmert der blinkenden Sterne Gold.
Wie bin ich euch Sternlein am Himmel so hold;
Durchziehn wir die Welt auch weit und breit,
Ihr gebt überall uns das treue Geleit.

じゃあね 地平線の太陽 じゃあね
今 満天に広がる
星の毛布に包まれて
彷徨える魂を癒して
照らしておくれ
星よ かすかな光で

Ade! du schimmerndes Fensterlein hell, ade!
Du glänzest so traulich mit dämmerndem Schein
Und ladest so freundlich ins Hüttchen uns ein.
Vorüber, ach, ritt ich so manches Mal,
Und wär es denn heute zum letzten Mal?

じゃあね 窓あかりひとつ じゃあね
ろうそくの揺れる炎
ぼくを手まねいて誘う
とびらの前で悩み
行ったり来たりしたが
今夜で最後にする

Ade, ihr Sterne, verhüllet euch grau! Ade!
Des Fensterlein trübes, verschimmerndes Licht
Ersetzt ihr unzähligen Sterne mir nicht,
Darf ich hier nicht weilen, muß hier vorbei,
Was hilft es, folgt ihr mir noch so treu!

じゃあね 消えゆく星たち じゃあね
銀河の星が降っても
窓のともしびに勝てない
部屋の灯が消えたなら
星案内もない
星案内もない
星案内もない
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「美しい水車小屋の娘」のジャケットと訳詞の松本隆氏のコメント(1401577.gifテキスト化しました。)
DSC_3023t.jpg
img928.gif
1401577.gif10/6追記:松本隆氏のコメントをテキストにしました。
美しき水車小屋の娘 松本隆

この有名な歌曲にしても、ほとんどの人はあらすじしか知らないと思う。ぼくも例外ではない。単純に粉引きの少年が失恋して自殺した、という認識しかなかった。
一歩踏み込んで、青春の透明さと危うさという理解くらいか。
日本語で歌えるようにしてみると、そんな簡単なことではなく、もっと立体的で複雑に構築された青春がそこにあった。

縦糸は「川」である。それは時間とか人生を表している。「冬の旅」の「道」と呼応している。
横糸は「白」と「緑」の対比である。白は粉ひきの少年の手の白さ、心の純粋無垢。緑は狩人の服の色を連想させる。
歌の中に狩人が登場する直前に、水車小屋の娘が金髪に緑のリボンをつけるのは、そういう暗示なのだ。
「枯れた花」では、主人公は妄想の中で、地中の墓に横たわり、地上に春が来ても、自分と一緒に埋められた花は枯れたままと歌う。

だが女の子がそこに通りかかると、モノクロの世界が突然天然色に変わるように、世界に花が咲き乱れる。
それはただの失恋の物語ではない。死してなお、少年は純粋な愛を少女に捧げている。

こういう詩や曲の深くに潜む真の意味は、ただ対訳を目で追っているだけでは、理解しにくいだろう。
耳で、旋律と一緒に自然に流れ込んできてはじめて、作者の意図に到達できる気かする。
それこそぼくがこの仕事をした理由である。

今度の仕事でぼくが幸運だったのは、福井さんと横山さんという類まれな才能に出会えたことだ。福井さんが歌うと、日本語の「言葉が立つ」のである。
横山さんのすごいところは、稀代のソリストにもかかわらず、「言葉に反応」してくれるところだ。
お二人が演奏すると、まるでシューベルトが血と肉をそなえてそこに佇んでいるような錯覚がする。それはぼくにとって至福な瞬間だ。
コメント追記(ブロガー)
上でネガティブなコメントを書いたが、何度か聴いて見て、これらのCDの素晴らしさがだんだん分かってきた。いかにドイツ語を勉強したとしても、決して母語ほどには心には入ってこない。歌曲とはメロディーと歌詞が一体のものだから(もちろん伴奏ピアノの和音とリズムも)、メロディーしか心に入らないのでは半分しか味わっていないことになる。母語に訳された歌詞で聴くと言うことは、「ドイツ語で聴くための準備」や「ファンを広げる」ためなどではなく、むしろ歌曲の「正しい聴き方」ではないか、そう思うようになった。
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