それぞれが今の自分の位置から10センチ左へ [社会]
これだけ問題がある共謀罪法案のことをメディアが全くと言っていいほど取り上げない.新聞やテレビが,そして記者たちがもし問題がないと考えるのであれば,沈黙ではなく「野党や法律家の指摘は当たらない」と陽にコメントすべきだろう.しかし(読売,産経は知らないが)そのようなコメントは聞いたことがない.ということは,記者たちに判断する力がないのか,分析する努力を怠っているのか.それとも,政権からの圧力をそれこそ「忖度」しているのか,だとすればそれほどに安倍が怖いということだろうか.怖いとすれば「なぜ」,「どのように」怖いのだろうか.是非とも知りたい.応援のクリック歓迎
共謀罪の問題は(これに限らないが)特にメディアの役割が大きい.一般の市民が,この法案の対象となる277の犯罪について詳しく調べることなど,事実上できない.また国会中継を全部ウォッチすることも出来ない.日々の仕事や家事で忙しい市民に代わって,職業としてこれらの問題を分析し,問題を発見し,必要なアラームを鳴らすのがジャーナリストの仕事のはずだ.少なくとも共謀罪に関する限り,主流ジャーナリズムはこの責任を放棄していると言わざるを得ない.勇気があり必要な知識と分析能力のある記者は,なにがしかの割合で存在しているはずだ.なぜそれが見えないのだろうか.
病院の待合室で近所のほぼ同年輩の男性に会った.数日前にポスティングしていた共謀罪のチラシを読んでくれていて,安倍政権のことが話題になった.彼は,「安倍が悪いのはもちろんだが,もっと悪いのは彼を選んだ国民だ」と,身振りも加えて待合室全部に聞こえるほどの大きな声で言った.確かにその通りだろう.
同意はするものの,「国民が悪い」と言って万人を「批判」したところで何か解決や対策の方法が見つかるわけでもないので,いわば愚痴の類いということになろう.冒頭の,ジャーナリズムに対する疑問,批判は,特定の職業グループに対するものなので意味がある.
しかし,批判をする人も,批判しているその「自分」はどうなのか,と問う必要がある.なるほど他人よりこの問題を理解し,危機感を持っているという自覚はあるだろうし,ネットで発言もしているかも知れない.だから「何も考えていない,危機感を持っていない連中が悪い」と考えるとしたら,それは間違いだと言いたい.というより,それは単に優越感に浸っているに過ぎないということだ.
人はそれぞれ,これまでの成長や生活の環境によって,内面に蓄積される「文化資本」*は多様であり,政治リテラシーという一つの尺度で測れば大きな格差があるだろう.これはやむを得ないことで,すべて本人の責任というわけではない.自分に政治リテラシーが備わっていると考える人は,もちろん本人の努力もあろうが,その文化資本に「偶然にも」恵まれたという要素も少なくないはずだ.
つまり,共謀罪反対の活動への貢献は,それぞれの「文化資本」をベースとして,それに見合ったものかどうかと言う点で評価・自己評価すべきだろう.政治リテラシーに乏しい人にとっては,関係する情報に触れる努力,理解する努力をすることだけでも大きな貢献だ.他方,活動家レベルの人は,様々な運動の工夫を考えたり,必要性によっては逮捕も恐れず行動する,という強度にまで活動の範囲を広げるべきだろう.
上に述べたように,人々は政治リテラシーや置かれた環境でその政治的能力は様々で,その尺度を座標とするスペクトル上に広く分布している.そのスペクトルのすべてにおいて,それぞれが少しでも,10センチでも1メートルでも,高い方へ動くこと(進歩・平和・平等を求める姿勢を「左翼」と呼べば,「左の方へ」),つまり活動の質と強度を上げることが重要だ.多くの人がそれぞれの位置から「10センチ」前進すれば,この国の政治的状況は大きく変わるはずだ.(5/23追記:一昨年の記事「フル・スペクトラム・レジスタンス」参照)
他者を批判するのもよい.それが適切な内容であれば社会への正味の貢献だ.しかし批判だけが人が出来ることのすべてではないのはもちろんだ.自分自身が出来うる限りの行動をしているのか,それも問わなければならない.「罪ある者を探すなら,鏡を見よ」,2006年に公開された優れたポリティカル・ファンタジー映画「Vフォー・ヴェンデッタ」で主人公「V」が発する言葉である.
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* フランスの社会学者ピエール・ブルデューによる.
共謀罪の問題は(これに限らないが)特にメディアの役割が大きい.一般の市民が,この法案の対象となる277の犯罪について詳しく調べることなど,事実上できない.また国会中継を全部ウォッチすることも出来ない.日々の仕事や家事で忙しい市民に代わって,職業としてこれらの問題を分析し,問題を発見し,必要なアラームを鳴らすのがジャーナリストの仕事のはずだ.少なくとも共謀罪に関する限り,主流ジャーナリズムはこの責任を放棄していると言わざるを得ない.勇気があり必要な知識と分析能力のある記者は,なにがしかの割合で存在しているはずだ.なぜそれが見えないのだろうか.
病院の待合室で近所のほぼ同年輩の男性に会った.数日前にポスティングしていた共謀罪のチラシを読んでくれていて,安倍政権のことが話題になった.彼は,「安倍が悪いのはもちろんだが,もっと悪いのは彼を選んだ国民だ」と,身振りも加えて待合室全部に聞こえるほどの大きな声で言った.確かにその通りだろう.
同意はするものの,「国民が悪い」と言って万人を「批判」したところで何か解決や対策の方法が見つかるわけでもないので,いわば愚痴の類いということになろう.冒頭の,ジャーナリズムに対する疑問,批判は,特定の職業グループに対するものなので意味がある.
しかし,批判をする人も,批判しているその「自分」はどうなのか,と問う必要がある.なるほど他人よりこの問題を理解し,危機感を持っているという自覚はあるだろうし,ネットで発言もしているかも知れない.だから「何も考えていない,危機感を持っていない連中が悪い」と考えるとしたら,それは間違いだと言いたい.というより,それは単に優越感に浸っているに過ぎないということだ.
人はそれぞれ,これまでの成長や生活の環境によって,内面に蓄積される「文化資本」*は多様であり,政治リテラシーという一つの尺度で測れば大きな格差があるだろう.これはやむを得ないことで,すべて本人の責任というわけではない.自分に政治リテラシーが備わっていると考える人は,もちろん本人の努力もあろうが,その文化資本に「偶然にも」恵まれたという要素も少なくないはずだ.
つまり,共謀罪反対の活動への貢献は,それぞれの「文化資本」をベースとして,それに見合ったものかどうかと言う点で評価・自己評価すべきだろう.政治リテラシーに乏しい人にとっては,関係する情報に触れる努力,理解する努力をすることだけでも大きな貢献だ.他方,活動家レベルの人は,様々な運動の工夫を考えたり,必要性によっては逮捕も恐れず行動する,という強度にまで活動の範囲を広げるべきだろう.
上に述べたように,人々は政治リテラシーや置かれた環境でその政治的能力は様々で,その尺度を座標とするスペクトル上に広く分布している.そのスペクトルのすべてにおいて,それぞれが少しでも,10センチでも1メートルでも,高い方へ動くこと(進歩・平和・平等を求める姿勢を「左翼」と呼べば,「左の方へ」),つまり活動の質と強度を上げることが重要だ.多くの人がそれぞれの位置から「10センチ」前進すれば,この国の政治的状況は大きく変わるはずだ.(5/23追記:一昨年の記事「フル・スペクトラム・レジスタンス」参照)
他者を批判するのもよい.それが適切な内容であれば社会への正味の貢献だ.しかし批判だけが人が出来ることのすべてではないのはもちろんだ.自分自身が出来うる限りの行動をしているのか,それも問わなければならない.「罪ある者を探すなら,鏡を見よ」,2006年に公開された優れたポリティカル・ファンタジー映画「Vフォー・ヴェンデッタ」で主人公「V」が発する言葉である.
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* フランスの社会学者ピエール・ブルデューによる.
2017-05-12 09:39
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