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言論抑圧疑惑は内閣打倒のきっかけにならないのか? [メディア・出版・アート]

先週金曜日の「報道ステーション」で展開された,古賀茂明氏による生番組でのメディア抑圧批判という非常に珍しい事件について,再度メモしておきたい.先日の記事はほとんど土井敏邦氏のブログの「コピペ」ですませたが,それほど私の感想,言いたいこととぴったりだったのだ.ここではもう少しだけ議論を広げてみる.

おそらくこれは日本のテレビ報道の歴史に残る事件となるのではないかと思う.テレビ業界の人にとっては,ほとんど放送事故という感覚だろう.しかし見ている方としては,全てがお膳立てされ作られた「ナマ番組」よりも,アドリブや偶然性こそがナマ放送のメリットのはずだ.今回の事件はさらに,政権によるメディア抑圧という重大疑惑の提起がなされたのであるから,なおさらだ.応援のクリック歓迎

もちろん「楽屋」で本当は何が起きたのかを視聴者が知ることは出来ない.古賀氏の言っていること,つまり官邸から報道ステーションへの圧力というのは,虚偽であるという可能性も,もちろん理論的にはありうる.しかしブログは裁判所ではないし,一般メディアも同様だ.その時その時で想像力と「勘」とを働かせて,即応性と妥当性のバランス,トレードオフを探さなければならない.即応性は,政権によるメディア抑圧疑惑ということがらの性質上,時機を逸すればもし真実であった場合の追及の効果が恐ろしく減ずるということから要求される.鉄は熱いうちに打たなければならないのだ.

すでに多くの人が指摘している事と思うが,今回の事件の大きな意味は,一つは,表立った,「晴れ」の場でこそ大事なことは言わなければならない,というメッセージ性にあると思う.古い言葉だが,PTA会議に関して「下駄箱を出た所から本当の議論が始まる」という言葉の対極だ.しかし決してこの言葉は古くなく,大学の教授会であろうと,町内会の総会であろうと,表立って本当の議論をしないという習慣はこの社会に蔓延していると思う.

もうひとつは,視聴者のメディアリテラシー向上に役立つ可能性が大いにあるということだ.国際比較で,日本の視聴者はメディアの言説をそのまま無批判に受け取ってしまう人の割合が非常に多いという話を聞く.メディアに権力から圧力がかかり,歪められている可能性があるという認識は,考えてみれば当たり前の話だが,それをはっきり示唆するシーンが1千万人とも言われる視聴者の前で繰り広げられたのだ.

次に,この事件の政治的意味だが,政治的にも重大な疑惑であり,野党やジャーナリズムは真相究明に動くべきだ.安倍晋三はかつてNHKの,日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷番組に介入したとの告発がなされている.これに対しても,政党やジャーナリズムの追及は全く不十分のままではないのか.

政治的にも,もしこの疑惑が本当であれば,それは内閣打倒の重要なきっかけになる可能性がある.このまま内閣が続けば,安保法制化など実に恐ろしい夏を迎えなければならない.どんな材料,機会もとらえて,機を逸せず,内閣打倒のチャンスを狙わなければならないはずだ.

古賀氏が新自由主義者と目されることで,この問題の追及に消極的になるとすれば,主義主張の是非と「言論の自由」とは全くレベルの違う問題であることを忘れていることになるだろう.ヴォルテール原則「私はあなたの意見には反対だ.だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」はとても重要だ(ただしヴォルテール自身の言葉かどうか不明).

最後に,3月27日の報道ステーションで,古賀氏が掲げたガンジーの言葉を採録したい.
【あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもあなたはしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によってあなたが変えられないようにするためである】(マハトマ・ガンジー)
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この言葉ほど今日の一般市民の政治生活*において重要なものはないと思う.「そんなことをしても大勢に影響ない」という無力感こそが(いわば小賢しい無力"観"),人々を実際に無力にしている.放送直後にFBに書いたが,ガンジーのこの言葉を人口の1%が信じれば,つまり自分自身に忠実になれば,むしろ「世界は変わる」と思う.

もう1点追記:なぜこんなにメディア人が安倍晋三に逆らえないのか,従順なのか不思議だが,一つにはメディア関係者の「出自」にあるのではないかと思う.テレビ報道職についての研究書を紹介した記事「テレビ報道職についての重要な分析」で引用したように,職に就く前にその職業のための専門教育を受けていないということがあるのではないか.
日本のテレビ報道職は、欧米のように大学や専門機関でジャーナリズムを学び、中小の放送局で実績を積むというキャリアアップシステムとは異なる供給プロセスを経ていることが確認された。すなわち、日本の放送局は、すでに持ち備えている報道職としての専門的能力を測って採用するのではなく、専門職としては色のつかない「まっきら」な状態の学卒者を、一般教養や英語など、専門性とは別の尺度の試験を課して新人として採用するシステムをとっている。
つまり,専門職教育はすべて就職後のオン・ザ・ジョブ・トレーニングに委ねられてしまっているため,そこで報道の自由や権力監視の役割といったジャーナリズムのイロハがしっかり教え込まれない限り,「まっきら」なままで現場に臨むことになるのだ.
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* 「消費生活」や「通販生活」,「性生活」という言葉はあっても,「政治生活」という言葉は国語辞典にないのかも知れない.しかし一般国民が政治の「主権者」なのだから,政治生活の改善の努力は重要なはずだ.
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寂静の矢

>単に「古賀氏を持ち上げ」ているわけではありません.
ブログ主さんがそう思っても、他者もそう思うとは限りません。政治闘争的には他者がどう思うのか、他者にどういった印象を与えるのかという想像力が非常に重要です。私がネットで見つけた、ある種極端な意見をわざわざ引用したのは、そういった他者への想像力を働かせていただくためです。

>古賀氏が新自由主義者と目されることで,この問題の追及に消極的になるとすれば,主義主張の是非と「言論の自由」とは全くレベルの違う問題であることを忘れていることになるだろう.ヴォルテール原則「私はあなたの意見には反対だ.だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」はとても重要だ。

古賀氏がもしもネット右翼的な思想の持主だったら、果たしてブログ主さんは古賀さんを擁護されるのでしょうかね?疑問です。少なくとも古賀氏を勇者のように持ち上げるような主張はなさらないのではないかと思います。「私はあなたの意見には反対だ.だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」はとても重要だ。と言いながら、例えばヨーロッパではヘイトスピーチは規制されているといった理由で、ヘイトスピーチは規制すべしという左派やリベラルのダブルスタンダードは如何なものかとも思います。日本のリベラルや左派が多くの人々から信頼されない一つの要因は、ダブルスタンダード的な主張が多いからです。

テレビは国民の共有財産である電波を利用していて、かつ社会的な影響力が極めて大きく、かつ少数の人々にしか言論の機会が与えられていないので、例えばネットなど多くの人々に言論の機会が与えられているメディアでの言論の自由と、テレビでの言論の自由は別の次元の問題だと考えるべきです。日本のメディア論では一般的に言論の自由ばかりが論じられて、公共性(パブリック)の観点が抜け落ちている事も一つの大きな問題だと思います。例えば、米国は言論の自由が非常に重視される国ですが、公共性という観点から、一般的に公平で客観的な報道がよしとされています(そういった報道がよいという意味ではありません)。そういった日本の貧弱なメディア論の状況で、例えば、いきなりヘイトスピーチの規制が論じられるので、おかしな事になるのだと思います。

また、日本のマスコミ・ジャーナリズムの問題は、ただ単に政府からの圧力がどうたらといった問題ではなく、集中排除原則が徹底されていない、閉鎖的な記者クラブ制度、電波利権、新聞の宅配制度の問題など構造的な様々な問題を抱えています。日本の大手メディアは様々な利権によって保護されていますが、そういった利権があるからこそ、日本の政府はメディアを間接的にコントロールし易いという問題もあります。但し、新自由主義者が主張するように、ジャーナリズムをただ単に市場原理に委ねたのでは、ジャーナリズムの質は今以上に劣化すると思います。また、日本はジャーナリストの育成が欧米諸国に比べると遅れているといいますか、劣っていると思います。

そもそも私の投稿は言論の自由がどうこうといった観点から述べたものではなく、政治戦略的な観点から述べたものです。ブログ主さんのエントリーは安倍政権打倒に重点が置かれた内容だったので、私も政治戦略的な観点から述べました。

また、私は前の投稿でも述べたのですが、反安倍政権的な政治勢力の中で、安倍政権打倒のためならば新自由主義的な経済政策も容認すべしといったような意見が多くなっていく事を懸念しています。前の投稿で紹介した方もそういった事を懸念されてのご意見だと思います。現にブログ主さんも「もし,共産党がこの問題を取り上げない理由が,古賀氏が旗揚げした「フォーラム4」のためだとすれば,木を見て森を見ず,という誤りを冒すことになろう」といったように、新自由主義の問題を極めて軽く見ておられます。

>言論抑圧疑惑は内閣打倒のきっかけにならないのか?
結論を言えば、おそらくならないと思います。もしも本気で安倍政権を打倒したいのであれば、安倍政権の揚げ足を取ることばかりに力を注ぐのではなく、自民党の政治的な対抗勢力である左派やリベラル自体が多くの人々にとって魅力的な政治勢力に成長する事に力を注ぐべきです。これまでも何度か述べてきましたが、どんなに安倍政権がとんでもない政権であっても、多くの人々がそれでも左派やリベラルに比べれば安倍政権の方がマシと考えれば、安倍政権は倒せません。

by 寂静の矢 (2015-04-06 06:41) 

yamamoto

言論の自由とヘイトスピーチ規制はダブルスタンダードではありません.また,新自由主義的な主張はヘイトスピーチには含まれないでしょう.

放送法の公平原則はもちろんとても重要です.だからと言って出演者が自分の意見を抑えなければならないということはありません.問題は事前の調整に違反してしゃべったということですが,確かに穏便ではないけれどやむを得ない行動だったと思います.
by yamamoto (2015-04-07 12:02) 

寂静の矢

>新自由主義的な主張はヘイトスピーチには含まれないでしょう.

新自由主義的な主張がヘイトスピーチだとは一言も申し上げていません。

>言論の自由とヘイトスピーチ規制はダブルスタンダードではありません

それは左派やリベラルがそう思っているだけで、一般の人々もそう思うわけではありません。自分達にとって都合のよい、或は不快ではない言論・表現を守る時だけ「私はあなたの意見には反対だ.だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」はとても重要だ。という原則を持ち出して、他者にも自分達の言論・表現を守るよう要求していれば、左派やリベラル以外の人々からダブルスタンダードだと思われても仕方ないと思いますよ。

私は左派やリベラルが人々から嫌われる原因を分析するために、ネットで左派やリベラルに対する批判をよく見るのですが、左派やリベラルはダブルスタンダード的な主張ばかりしているといった批判は多いです。左派やリベラルの主張が本当にダブルスタンダードなのかどうかはともかく、少なからぬ人々にそう思われている事は事実です。

>放送法の公平原則はもちろんとても重要です.だからと言って出演者が自分の意見を抑えなければならないということはありません.問題は事前の調整に違反してしゃべったということですが,確かに穏便ではないけれどやむを得ない行動だったと思います.

私の前回の投稿文は、古賀氏がとった行動は間違っているといった意味ではありません。ただ、例えば、テレビ局側が放送法の公平原則の観点から、報道番組の準レギュラーのコメンテーターというポジションで政治的にかなり偏った主張をしている古賀氏をコメンテーターから降ろすといった判断をしたとしても、それはそれで一つの判断で、社会的に糾弾すべき判断ではないと思います。

米国には良い悪いは別にして、論争の渦中にある事件について社員が意見を述べる事を禁止するなど、かなり厳しい職業倫理を課している報道機関もあります。意見を述べなくても、事実をありのままに報道する事によって、権力のチェックは出来ます。

一般的な言論の自由と、国民の共有財産である電波を利用していて、かつ社会的な影響力が極めて大きく、かつ少数の人々にしか言論の機会が与えられていない地上波テレビでの言論の自由は別の次元の問題だと考えるべきです。そうしないと、地上波テレビにレギュラー、或は準レギュラーとして出演する事が出来る少数の人々(ある種の特権階級)にとって都合のよい考え方しか反映されない社会になってしまいます。といいますか、日本は既にそうなっていると思います。経済的弱者の立場に立った主張が多い社民党や共産党が恐ろしく人気がない一つの要因も、そういったところにあると思います。

◆ご参考までに
「ニュースキャスターの使う言葉の一言一言を取り上げたくなります。彼らは、何千何万のテレビ視聴者の前で、自分が引き起こしかねない困難や重大な結果、それによって負うことになる責任を少しも自覚することなく、軽はずみな事をしばしば口にします。彼らは、自分達の責任をわかっていないし自分達がそれをわかっていないという事をわかっていないのです。それらの言葉は物事を作り上げます、幻想の産物、恐怖、嫌悪、何よりも物事の誤ったイメージを創り出すのです」(ピエール・ブルデュー著『メディア批判』より)


by 寂静の矢 (2015-04-07 23:01) 

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