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NHKの「花子とアン」に注目

hanakotoann.jpgNHKのみそ汁ドラマはこれまでほとんど見たことはなかったのですが,「花子とアン」は途中からですが釘付けになっています.特に今週は蓮子の夫が憲兵に連行されるシーンなど,戦時色の描写が鋭いです.戦争は民衆が積極的に加担・推進するもの,というのもよく描かれています.応援のクリック歓迎

ラジオJOAKで子ども向けのニュース番組を担当することになった花子が,軍国化が進むなかで「戦意高揚」にもつながりかねない内容のものを放送させられますが,蓮子はこれを戦争協力だとなじります.まさに,安倍内閣をなかなか正面から批判できない,今日のマスメディアに従事する人々が背負う問題性そのものでもあります.

BSですが土曜朝9時半から1週間分が放映されるので,お見逃しの方は是非.
http://www.nhk.or.jp/hanako/info/onair.html

私が宣伝するまでもなく,すでに高い視聴率だとは思いますが,描かれている当時の日常と今日見られる政治・社会の本格的な右傾化とのパラレリズム(類似性)が鮮やかです.いろんな機会に引用することでこの番組の視聴率を上げることは,社会の極右化へのなにがしかの抵抗になると思います.

それにしても,発足したばかりの新安倍内閣の面々は,安倍氏本人も含めて,このドラマをどのような気持ちで見ているのでしょうか.彼ら彼女らは,ドラマに描かれた戦前・戦中を美化する人がほとんどのようですから(つまり「日本を取り戻す」の日本とはそのような社会のようです),不満を持って見ているのか,それとも見ていないのか?

1401577.gif14/9/12メモ:ある文学者の評論
1401577.gif14/9/17関連ツイート,FB:
https://twitter.com/yamamoto2007/status/511664666355843072
https://www.facebook.com/kouichi.toyoshima/posts/575347439237676
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yamamoto

一つ前の記事に,この記事へのコメントがありましたので,こちらに返事を書き込みます.
バッジ@ネオ・トロツキストさん:「おとやんは、憲兵だったことに苦悩し始めた兄やんに向かって「人生でムダだったことなどない」などと慰撫と免罪の言葉を吐いていますから、原作者や脚本家に侵略戦争への加害責任についての明確な認識と反省が欠けていることは明らかでしょう。」
この科白については,FBで小西さんが同様なことを書かれていて,https://www.facebook.com/y0kohoriguchi/posts/690164354393188
そのコメント欄に書いたのと同じですが,ここでもし父親が息子に責任を問うような言葉を発すれば,むしろとても不自然だと思います.言わば反戦「政治ドラマ」になってしまう.精神的に追いつめられた子に対する肉親としての接し方としてはこれしかありえないと思います.
花子の,ラジオでの戦争責任は,今日放送分の,蓮子への謝罪のエピソードでひとつの解決があったと思います.むしろ,作者は今日の状況に対して精一杯の警告メッセージを発していると思います.ただそれがどれだけ「ふつうの」視聴者に受け取られるかは不明ですが.
by yamamoto (2014-09-23 13:49) 

yamamoto

たしかに,侵略戦争への加害責任にまでは踏み込んでいないことは確かですね.しかしそれは映画でさえも,たとえば「ラーベの日記」が一般館で上映されないことからも,とても困難な一線だと思います.
by yamamoto (2014-09-23 13:53) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

yamamotoさんは小西誠さんのFBで「一般国民=犠牲者」論を書いておられますね。
しかし、こういう免罪論は、戦後一貫してナチズムを糾弾し続けてきたドイツなどヨーロッパ諸国の摘発実態とも違い、侵略戦争や戦争犯罪の「再発防止」を目指すものとしては非常に甘いものだと思いますよ。
こういう免罪論は戦後、抑留日本兵を再教育する際に用いられた中国共産党流の「A級戦犯B、C級戦犯峻別」主義などとも通底しており、当方には、そういう態度に帰結する思考の最奥には、マルクス理論の俗流的理解(=誤解)が潜んでいるように思われます。

そう、マルクスの(つまりは唯物弁証法の)人間論や人格論に対する誤解です。
フォイエルバッハ第6テーゼなどを丸呑みにしただけの、人間観の一面化です。
人間性や人格性は、「社会的諸関係のアンサンブル」であり、社会による一方的被造物だと一面化するような理解態度です。件のテーゼがフォイエルバッハ批判の必要・目的から書かれたものであるという限定や、マルクスたちにテーゼの印刷公表意図が無かったことなども忘れたテーゼの金科玉条視です。

しかし、人間をただ単に社会や社会的諸関係(その究極的発生母体は物質的生活の生産関係である)の被造物であるとみるだけの人間観は、実はマルクスのものではなく、マルクスが批判を加えたヘーゲルのものだったのです。
つまり、死を恐れて反抗を諦め奴隷の身分に安住するような人間にも人格をみるヘーゲルの人間論もまた、マルクスが批判する関係主義的人間理解であり機械的唯物論でしかないうことです。
フォイエルバッハが、社会関係による形態規定を忘れた抽象的な人間論しかもてなかったのと逆の、社会に埋没し切った人格性をも肯定するようなヘーゲルの人間観・人格論もまた、マルクスの批判するところのものだったのです。

したがって、戦争犯罪のようなものについて考える場合も、対象が戦争指導層(A級戦犯)以外の一般国民であっても、その被害者としての側面のみならず、加害責任を「個人責任」としても考えることこそが求められる、というのが弁証法的唯物論の立場です。

当然です。当たり前です。
戦後行われていた戦友会で、「戦果自慢」よろしく、自分が戦時中に犯したレイプ犯罪や虐殺行為を酒の肴にして下劣で非道なバカ話しに興じていた元下級兵士(彼らも階級的には「一般国民」です!)の加害責任が放置・免罪されてよいはずがないからです。
「シンドラー」や「ラーベ」で描き出されなくとも、戦後ヨーロッパ社会は小林多喜二を虐殺した特高や「慰安婦」を虐待した人道犯罪者たちに類する連中を決して許しませんでした。左翼やレジスタンス、反戦宗教家たち以外の民族的な加害責任が厳しく問われたのです。

今、日本社会が人類から問われているのが、悪行の無反省どころかその隠蔽や開き直り、美化にまで至った事態です。ですから、「身内」にも自分にも甘い態度は禁物なのです。


追記:中国共産党など俗流左翼の「A級戦犯B、C級戦犯峻別」論が不徹底だったのは、B、C級戦犯や一般加害兵士に被害者である中国国民に対する反省や謝罪、贖罪をさせただけで、犯罪者を生み出した日本社会の全体に向かっては犯罪者たちの罪と懺悔の事実を公表しなかった点でしょう。また、国内では特高や翼賛会員などの非軍属の加害責任も放置されてきた。
つまり、あれでは犯罪への反省を社会的に公表しないままに麻原彰晃や一部の直接実行犯だけをただ死刑にするだけのようなもので、社会的な教訓や総括材料の提供にはならないのです。
臭いものにフタがされただけ、というのが実際のところでしょうね。

(なお、当方は死刑制度反対の反報復主義者ですので念のため)
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2014-09-24 11:46) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

なお、当方が批判する関係主義的人間観(=フォーエルバッハ第6テーゼなどに依拠した唯物論の俗流化)への批判は、日本でもすでに粟田賢三氏や山本広太郎氏、有井行夫氏などが70年代末頃から開始していますから、ぜひ一度ご点検を。
なお、社会的諸関係、諸形態の根源的発生点である労働をみない観念論者ヘーゲルにおいてさえ、「多数意思」や「全体意思」への従属を批判する「普遍的意思」の対置があったことは付言しておきます。
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2014-09-24 12:00) 

yamamoto

当時の「若者」は「9割方」犠牲者,と書きました.想像で肉付けして批判されても困ります.このブログ記事にも「戦争は民衆が積極的に加担・推進するもの,というのもよく描かれています」と書きましたように,民衆自身の加害者性は,多かれ少なかれこのドラマに描かれていると思います.
by yamamoto (2014-09-24 12:05) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

yamamotoさんは、まだ甘い願望や希望的観測にすがりついていますね。
戦争加害責任があるのは若者の1割程度ではけっしてないはずですよ!

by バッジ@ネオ・トロツキスト (2014-09-24 12:18) 

yamamoto

今日(24日)の蓮子のアナウンス,なんと68年ぶりの「再放送」だったようですね.とても意味深長な再放送だと思います.
http://ja.wikipedia.org/wiki/柳原白蓮#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E6.99.A9.E5.B9.B4
「1946年(昭和21年)5月にNHKラジオで子供の死の悲しみと平和を訴える気持ちを語った事をきっかけに・・・」
by yamamoto (2014-09-25 00:22) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

度々繰り返しますが、日本人は左翼人氏や進歩派たちも含めて、「総括」の習慣が決定的に弱いと思います。
総括とは、単なる「反省」だけにも終わらないものです。
検討や反省の内容を公表し、共有努力(つまりは普遍的な教訓化」)をすることなども含むのです。

「花子とアン」の先週放映分ですが、感想を聴取したポルトガル人の若い女性(留学生で日本語堪能)も当方同様に、やはり問題性を指摘していました。
日本ではきちんとした総括が無かったからああいうセリフしかない芝居やそれで良しとする空気が国民の中に広くあるのだろうと。

なお、戦争加担責任には戦争犯罪責任も含まれますが、両者は同一ではありません。日本人が未総括の戦争責任には、侵略戦争を許してしまった一般国民の加担責任だけでなく、犯罪責任(直接的加害責任)そのものも厳として残存しているからです。
また、被害と加害の両側面についても、前者で後者を免罪するわけにはいかないと思います。当事者において主体的能動的に犯された戦争犯罪は、「被害者」論で免罪は出来ないということです。

なお、悪行の無反省と隠蔽や美化の違いについても厳密に区別して考えるべきでしょう。
今日の「自存自衛」論や戦後の日本社会に温存されていた「残虐行為の戦果報告会」などは、特に看過出来ないからです。


ところで、自然科学者たちは哲学に弱いという従来からある指摘は、こういう問題を考える際にも当てはまるようですね。
「現象」と「本質」、「形態」と「実態」、「量」と「質」、「有」と「無」、「実在性」と「客観性」などの哲学的な基礎カテゴリーにおける差異性と同一性や両者間の矛盾について考察することは衒学ではなく、社会科学的考察や社会問題の検討を行う際には不可欠な重要事です。「加害」と「被害」の問題についての考察でもまた然り。
ユークリット空間と非ユークリット空間の違い、十進法次元と二進法次元の違いのような前提的枠組みの多層性にも無頓着に、経済学に数学を適用できると過信するエセ社会科学者も少なくない現代社会ですから、専門的研究者にも哲学の研究をいっそう強くお願いしたいものです。
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2014-09-25 08:48) 

yamamoto

第二次世界大戦の戦勝国の加害責任の追及がほとんどなされないことは,法的にも,また平和運動にとっても,重大な盲点だと思います.この問題を極右の「専売特許」にしてはいけません.これらの国にとって軍隊は絶対的な「善」とされ,侵略行為や軍拡に歯止めがかかりません.
by yamamoto (2014-09-25 09:36) 

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