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『大学のミッション』考察のために [仕事とその周辺]

佐賀大学理工学部は"ScienTech"というタイトルの定期刊行誌を発行しています.
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10156014
これは,論文集である「佐賀大学理工学集報」とは別に,評論や業績リストなどをまとめたものです.年2回刊ですが,間もなく発行される春号に公表予定の文章を,編集長の許可を得て事前公開いたします.恒例として退職教員が書く枠に寄稿したものです.題して「『大学のミッション』考察のために」.

キーワード:ユネスコ高等教育世界宣言,科学技術倫理,軍事研究,学術会議,市民的不服従,組織上の不服従
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   「大学のミッション」考察のために

                 豊島耕一

1981年の夏に当時の教養部に赴任して,わずか1年後に,しかも1年もの間,外国で研修をさせてもらうという先輩方の配慮に恵まれる中で,佐賀大学での勤務が始まりました.それ以来31年余り,自由な雰囲気の中で教育と研究に従事できたことをたいへん幸せに思っています.しかしその間ずっと平穏だったということではなく,1996年の教養部解体とそれに伴う配置換え,そして2004年の「法人化」と,大きな二つの行政的な変化を経験しました.そのような中で「大学とは何か」という問いに何度も向き合うことになりました.本稿では,大学の使命 — 最近流行の言葉で言えば大学の「ミッション」について,かなり長く国立大学という職場を経験した者としての考えを述べてみたいと思います.

ユネスコ宣言「21世紀の高等教育 展望と行動」
私にとって,この考察の重要な基盤を与えるものの一つは,ユネスコが1998年に発表した「高等教育世界宣言」です.この宣言の内容は多岐に亘りますが,そのエッセンスの一つは,大学に対して教育・研究と共に「倫理的役割」として社会に対して発言することを求めている点にあります.すなわち,「社会が必要とするある種の学術的権威を行使することによって,倫理的,文化的および社会的問題について完全に独立に,そしてその責任を十分に自覚して発言する機会を与えられ」るべきである(第2条b項)とし,その機会を生かして「UNESCO憲章にうたわれているように,平和,正義,自由,平等および連帯を含む普遍的に受け入れられている価値を擁護し積極的に普及するために,知的能力およびその道徳的名声を行使し」(同d項)なければならないと述べています.

「普遍的に受け入れられている価値」とはいいながら,UNESCO憲章など特定の価値観の称揚と普及を大学に要求しているように受け取れなくもありませんが,これは例示であり,重要なポイントは前の「独立した発言」というところにあるでしょう.社会制度としては民主主義であっても,政府権力はその委任された範囲を超えて支配的になりがちであり,また資本もそのような力を持ちます.そのような社会の一元的支配を避ける知恵として,政治制度としては「三権分立」など複数主義を発達させて来たのですが,教育と学問の世界でも「学術的権威」の独立性が重要だということです.わが国でも,日本国憲法の「学問の自由」の保障と,その基盤としての大学自治という概念の承認によってこれが認められていると言えるでしょう.(なお,このユネスコ宣言と全く同時期に日本の大学審議会答申が出されていますが,両者の比較は1999年の拙稿[1]をご覧頂ければありがたいです.)

沈黙の害悪
そのような独立性が失われるとき,それが社会にいかに重大な災害をもたらすかは,一昨年の福島原発災害をめぐって,国や電力会社と癒着した学者の問題,いわゆる「御用学者」問題として明らかになりました.つまり,政府や企業権力からの独立性を欠いた「学術的権威」のもたらす危険性です.しかしこの件でより基本的な問題は,市民からやり玉に挙げられた個々の学者にではなく,この問題の危険性について沈黙し続けた大多数の学者や,大学も含めたそれらの団体にあるのではないでしょうか.このことはアメリカの学会の例と比較すると明白でしょう.米国物理学会は1975年と1985年に,原発の炉心溶融事故について研究し,詳細な報告書[2]を公表しています.アメリカの物理学者は原爆開発の一環としての原子炉開発に当初からかかわり,むしろそれをリードしてきたという歴史がその背景にあるのでしょうが,それから30年以上も経てば「業界」ごとの専門分化は相当進んでいたはずです.その業界の垣根を越えて研究を行っていたのです.これに対してわが国では,個人としては多くの物理学者が批判や分析に関わっては来たものの,物理学会としての公的な関わりはまったくなかったと言っていいでしょう.もし物理学会が違った政策を取っていたら「フクシマ」は防げたかも知れません.

その名を冠した奨学金や日米交流事業で有名な,フルブライト上院議員(故人)の次の言葉も同様のことを指摘していると思います.
大学がその中心的な目的に背いて政府の付属物になり,目的よりも技術に,思想よりも手段に,新しいアイデアよりも権威に傾くならば,それは,学生に対する責任を果たしていないだけでなく,社会からの信頼をも裏切っていることになる.1401577.gif(訂正あり.末尾参照)

原文:When the university turns away from its central purpose and makes itself an appendage to the Government, concerning itself with techniques rather than purposes, with expedients rather than ideas, dispensing conventional orthodoxy rather than new ideas, it is not only failing to meet its responsibilities to its students; it is betraying a public trust.
このような,科学と社会の関わり,科学者の社会的責任の問題は,すでに例示したように,福島原発災害によって多くの科学者に意識されるようになったし,またそうあらねばならないと思います.3.11の空前の自然災害は,科学技術がどうのこうのと言っても自然の前では人間の能力がいかに小さなものであるかをまざまざと見せつけるものでしたが,それに続いて起こった福島原発事故とそれが引き起こした放射能災害は,まさに科学技術そのものが引き起こした災害と言えるからです.まき散らされた大量の放射性物質は,核物理学を中心とした科学によって人工的に生み出されたものです.

哲学の重視
ユネスコ宣言にある「倫理的役割」を大学が果たしていくためには,当然ながら科学技術倫理の問題を大学教育で扱うことが重要になります.このことは,本学部や大学院においては,福島原発事故を待つまでもなくおそらく10年ほどの経験があると思います.しかしこれをテーマにした教科書は,特に日本語ではまだ極めて少なく,また内容的にも,軍事研究の是非というような,最も重要であるけれども政治的にセンシティブなテーマに触れるものはまたさらに少ないようです.しかし英語にまで広げればもちろん多数の文献があります.筆者の数少ない書庫から軍事研究の問題に触れた2冊の例を挙げますと,S.W.Leslieの“Cold War and American Science”[3]は,アメリカを代表する2つの工科系の大学について,その「軍学共同」の実態を歴史的に分析しています.また,2002年に刊行された“Science and Technology Ethics”という本[4]には,科学の新しい軍事利用を予見して,それを事前に禁止する国際協定を作成するという野心的な提案[5]が見られます.

軍事研究の問題に関しては,戦後間もない時期に学術会議が出した声明も重要です.学術会議発足に当たっての「決意表明」(1949年1月22日)では,過去の戦争協力への反省と平和への努力を謳い,1950年4月28日付けの声明では「戦争を目的とする科学の研究には,今後絶対に従わない」と宣言しています.これらの文書は日本のアカデミズムでは長い間「お蔵入り」同然の状態でしたが,最近,学術会議のウェブサイトに掲載されました.これを機会に大学教育でも取り上げられることを望みます.

科学者・技術者倫理の問題では,組織の中での「個人の良心」と「組織体の意志」との衝突ということも大きなテーマです.この件ですぐに思い浮かぶのは「内部告発」という言葉かも知れませんが,C.E. Harris, Jr.らによるEngineering Ethics(邦訳:科学技術者の倫理)[6]では,この問題がより幅広く議論されています.その中で重要なキーワードとして「不服従」という行為が扱われています.不服従の一例として,技術者が,自分が安全でないと思う製品の設計を拒否する場合,これを「不参加による不服従」と分類しています.他の二つのカテゴリーも含め,「市民的不服従」(civil disobedience)の概念にならって「組織上の不服従」(organizational disobedience)と呼び,それが正当とされる範囲や方法を議論しています.(日本語訳では前者が「市民の不服従」と訳されているため意味が通じにくいでしょう.)

因みに「市民的不服従」とは,市民が個人や集団で,自らの良心や国際法・憲法など高位の規範に基づいての,法律や命令に反して政府の行為に対する非暴力的な抗議行動を指しますが,これは今日の日本社会においては十分に市民権を得ているとは言い難い状況です.このことは辞書にも反映しており,広辞苑第4版では「不服従」の見出し語さえありません.しかしロングマン英英辞典では,次のように“civil disobedience”が定義されています.
[uncountable] when people, especially a large group of people, refuse to obey a law in order to protest in a peaceful way against the government
これは,教材を外国語で書かれたものに広げることの重要性を示す一つの例でしょう.

メディアリテラシー教育と並んで,科学者の社会的責任についての考察力をつけることは,これからの大学教育・大学院教育において重要な位置を与えられるべきだと思います.責任や倫理の問題は哲学の問題でもあります.フランスの高校では哲学が必修科目とされているそうですが,これはわが国の教育においても全く見習っていいのではないかと思います.それがすぐには無理なら,大学教育で科学者倫理の教育を充実することで,逆に哲学への関心を高めることが出来るでしょう.
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文献
[1] 豊島耕一,「ユネスコ高等教育宣言と大学審答申−−『グローバルスタンダード』と儒教イデオロギーとのギャップ」,「科学・社会・人間」69号(1999),ウェブ転載済み.
[2] Rev. Mod. Phys. 47(1975), S1 およびRev. Mod. Phys. 57(1985), S1.
[3] SW Leslie, The Cold War and American Science, 1993
[4] Raymond E. Spier, Science and Technology Ethics, 2002
[5] 同上,Atiyah 執筆の部分
[6] C.E. Harris, Jr. ほか,科学技術者の倫理,丸善,2002
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1401577.gif訂正(2014.1.30):オリジナルである米国上院議事録に当たったところ,次のように訂正します.
日本語訳部分:思想よりも手段に → 理想よりも手段に
原文:rather than ideas → rather than ideals
1401577.gif(2014.2.5)文献[6]の該当部分を文字化しました.
(日本語訳)
http://ad9.org/pegasus/society/ethicalisssues/harris-J8.8.htm
(原書該当部分,英語)
http://ad9.org/pegasus/society/ethicalisssues/HarrisJr.et.al8.5-8.6.htm
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バッジ@ネオ・トロツキスト

教育における科学と哲学の統一的追求のためには、そもそも事実認識と価値認識の関係性それ自体の究明が前提的な学問課題になっていると思いますね。
この点は、マルクス主義陣営の一部で近年指摘され始めているエンゲルスの実証主義への傾斜や、当方が再三指摘し批判している不破哲三氏の自覚的な実証主義導入のような左翼界固有の問題だけでなく、日本国憲法の「前文」と9条の関係性理解ともつながる立憲主義と憲法の規範性の恣意的な二者択一視などのような分野でも議論が起きているようですからなおさらです。科学や哲学の発生(と分離・自律化)の歴史をも究明しなければならない。

人間界においては、もともと、事実認識と価値認識は統一していたんですよね。「今日はクソ暑い」などと感じる場合に気温の事実と不快という好き嫌いが未分化だったように、本源的には事実認識と価値認識は同一のものだった。両者が独立していてまるで始めから別物であったかのように考えるのは現代社会についての無自覚の結果だと思います。
だから科学者の社会的責任とか現行憲法の現実性といったような議論も出てくる。

奨学金のサラ金化問題から「教育」そのものの定義まで、今日の教育界にも解決課題が山積しているようですねw




by バッジ@ネオ・トロツキスト (2013-04-17 18:24) 

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