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危険性が十分に予測される参院選が目前というのに [社会]

共産党の第6回中央委員会総会(本年2月)の内容検討などを中心とした「革新政党の不振と衰退は目を覆うばかりだ」と題する広原盛明氏の論評シリーズがブログ「リベラル21」に掲載された.長文でしかも11回にわたる記事なので一部しか読んでいないが,当ブログでこれまで述べて来た考えとほぼ共通するのではないかと思う.共産党は,左翼・革新勢力の枢軸としての役割が期待されるが,全くそうなっていないことの分析,そして左翼全体への重要な問題提起,そういうことだと思われる.

当ブログでも繰り返しこの点を議論して来た.例えば2010年10月の「共産党はもっと組織の民主化が必要」という記事には,議論とともに同じ系列の過去記事へのリンクを付けている.応援のクリック歓迎

さて,最新の共産党中央委員会総会に関しても,残念ながらほとんどのことが全く同様に当てはまるようだ.「決定」が幹部の発言のみというのも相変わらずだし,長文の報告に要約文もない.内容的には要するに「精神訓話」に終わっている.もちろん精神訓話は重要である.しかしそれだけでは勝てないし,道は開けない.

精神訓話性について志位結語に即して少しコメントすると・・・.

「政党間の力関係は固定的ではない、流動的なものだということを、私たちがよく見て、そこに全力で働きかけるならば、勝利への道は開かれるということが、討論を通じても明らかになったことを、私は強調したいと思います。」

それはその通りだが,どのようにすればその「流動」性を加速できるのか,その「戦略」と「戦術」の議論を見つけられない.

また,奈良県の沢田県委員長発言の引用で「直近の比例代表選挙で2万票以上獲得したことが地区党の確信となり」とあるが,「確信」の目的語が不明だ.

最後の方の小見出しに「5人全員当選に責任を果たそう」とある.当選「に」責任を果たすのは良いにしても,5人の当選「で」責任を果たせるのか?それで国会全体の大勢を変えられるのか??

13年前,小泉政権誕生直前の2000年11月に共産党22回大会が開かれたが,その決議には「自民党政治のゆきづまりと危機は、いよいよ深刻になった」「自民党の国民的基盤は、歴史的な崩壊の過程にある」と,もっぱら自民党にとって悪い材料の一面を強調するだけであった.その直後に誰もが目にすることになった歴史は,小泉純一郎によって引き起こされた社会的大災害である.つまりこの決議は,このような自民党政権の「新装開店」に対して,先手や予防策はもちろん,警告すら発していないし,その材料も提供できなかった.つまり小泉政権のようなものは「想定外」だったのである.

まさに当時,政治談義の場でのこのような一面的な「自民党終末論」に対して,私自身「それは支配勢力を甘く見すぎている,何かの新機軸で巻き返してくるに違いない」と反論したことをはっきり覚えている.

夏の参院選を前にした今の状況はより明白で,政治のよりいっそうの反動化が起きることが誰にも予測出来る状況にある.にも関わらず相変わらずの精神訓話で終わっているという共産党の状況は,広原盛明氏のことばの通り深刻である.最大の問題は,そのような状況に対して党員や支持者がなぜ声をあげないのか,ということだ.とりわけ左翼知識人の責任は重大だ.
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バッジ@ネオ・トロツキスト

ソ連・東欧の旧体制が崩壊した際に、日本共産党はソ連党の破綻を「巨悪の崩壊を歓迎する」とせざるを得なかったのですが、宮本顕治などはそこに至る過程で、いわゆる「社会主義の復元力の発揮」に期待し、ソ連やソ連党の先行きを楽観していたんですよね。
こういう歴史的事実に照らすと、今の日本共産党の状況も、けっして楽観出来るものではないように思います。「我が党はソ連党とは違う!」などと強弁しても、何の保証もありません。原因や具体的状況が異なっているとしても、まともな現状打開策・党改革が無ければ、そういう楽観や強弁は単なる「安全神話」で終わる可能性が強い。

ところで、そういう状況認識に立てば、「分派」や「別党コース」の問題も浮上して来ざるを得ません。
何よりも、「崩壊を歓迎」するような状況だったソ連党について、それでは「何をなすべきだったか?」という歴史の教訓・総括の必要を無視出来ない。「他人事の後知恵解釈学」で「巨悪の解体を歓迎」しているだけでは、実践の観点が欠落します。「ソ連党の構成員たちは、『巨悪』の崩壊を迎える以前に、どうすべきだったのか?」という疑問への解答が現在の課題として残り続けています。ソ連共産党員が採るべき道は「党内改革運動」だったのか、それとも「分派」や「別コース」だったのか、という問題です。

こういう問題は、いわゆる「内政不干渉原則」や「民族自決権」の次元を超えた、科学的社会主義の組織論、運動論、革命論に属する「一般理論」に含まれるものでもあり、我々にとってもけっしって「他人事」では済ませられない問題だと思います。

ブログ主はいかがお考えでしょうか?
「我が党はソ連党と違う!」という自党正当化論も、その「違い」を言い立てる際の基準に恣意性があっては、しょせん「地べたを這う実証主義」の立場でしかありませんから、「基準」の確定も重大でしょうが・・・

by バッジ@ネオ・トロツキスト (2013-03-26 09:33) 

yamamoto

ソ連崩壊の問題,ほんとにいい加減なまま放置されていることに気付かされました.ありがとうございます.どのような「コース」を選ぶべきかという問いは自分の行動と切り離せないわけで,私の可能な選択としては,「改革運動」ということになりますね.
by yamamoto (2013-03-26 23:00) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

>ソ連崩壊の問題,ほんとにいい加減なまま放置されている

日本共産党は、ソ連党について、「覇権主義」や「専制政治」体質を批判しましたが、その党内問題については「党内民主主義の欠如」を言うぐらいで詳細な分析・総括を依然等閑視・放置したままです。

レーニンが『何をなすべきか?』で残した20世紀初頭的な党建設や革命論のような理論はそれを普遍化し基本的に継承したくせに、「崩壊」のような問題では、党のあり方について、ほとんどそこから教訓をくみ取ろうとしていません。

民主集中制についても、それへの護教的態度は続けてもスターリンによる民主集中制の破壊が何時、どのように起こり、それはフルシチョフ体制以降に清算されたのか否かについてなどは明確な見解を公表せず、全く曖昧なまま「護教」を続けています。

また、ブログ主ご主張の「責任問題」についても、日本相撲協会や全柔連の不祥事などでは「赤旗」で盛んに責任問題を追及しますが(それも後追い的にでしかありませんでしたが)、これまたしょせんは「他人事」。自党には「他山の石」や「対岸の火事」の自覚さえ存在しません。独善的で傲慢な態度が続いていると言えましょう。

上記のようなことを書くと、またまた「我が党はソ連党とは違う!」なる論点ずらしの擁護論が出てくるでしょうが、では、いったい何が違うのか、問題を検討する際に用いられるべきモノサシは何なのか、という論点への解答はまことに恣意的なものでししかない。「我が党」は覇権主義ではないから、とでも言い抜けようというのでしょうか?笑うべき態度です。

本当に困った「科学的」「社会主義」組織ですw
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2013-03-27 08:41) 

バッジ@ネオ・トロツキスト

なお、いわゆる「民主集中制」については、イタリアの「共産主義再建派」の人間(指名失念・元イタリア共産党員だと思います)が、「20世紀の共産主義運動で常則化されていた民主集中制については、今日、それがどういうものであり、どういうものであるべきか、が再定義されなければ、安易には語れない」云々との見解を述べてもいます。

私見では、現在の日本共産党の民主集中制は、「民主(的)」どころか「集中制(中央集権制)」でさないものであり、現在その再検討が強く求められているように思います。
例えば、宮本氏の「『民主』と『集中』の弁証法的統一」なる寿限無論も、対立物の統一における媒辞の規定の問題性や「統一」のあり方についての理解が床屋談義水準のものでしかないように思います。(ここには「矛盾」や「弁証法」についての今日的な哲学的専門的な発展的理解が全く欠落した素人論議のレベルの継続しか感じられないのです)

by バッジ@ネオ・トロツキスト (2013-03-27 09:04) 

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