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ミサイル配備に反対して座り込んだドイツの判事たち [社会]

1401577.gif(9/28 全部訳)
いま沖縄・普天間では歴史的な闘いが始まっています.25年前,ドイツではアメリカの核ミサイル配備に反対する判事たちの座り込みがありました.オスプレイがパーシングIIミサイル,宜野湾はムートランゲンと対応します.勇気あるドイツの判事たちに学ぶことで,パワーが出てくると思い,この行動に参加した判事の文章を翻訳しました.原文はこちら.
http://peacemagazine.org/archive/v03n4p19.htm

peacemagazine.jpg人民の名において:ミサイルは出て行け!
ハンブルグ地裁判事 ウルフ・パンツァー
(Peace Magazine Aug-Sep 1987, page 19)

ムートランゲンはドイツ南部の小さな町で,シュツットガルトに近い.なだらかな岡と緑の森に囲まれた谷間にある.中世の城跡は観光名所だが,5年前はムートランゲンなどだれも知らなかった.今日この町にはパーシングIIミサイルが配備され,核による滅亡の場所,悲しみの場所である.しかし同時に命の場所でもある.ムートランゲン基地のゲートには,ミサイルに反対する人々が途切れることのないヴィジル(寝ずの番)を続けている.そして数千人の人々がムートランゲンに来ている.年長者も若者も,そしてあらゆる職業,階層の人々が.彼らは,パーシングが撤去されるまで基地封鎖のためにやってくる.彼らは警察に逮捕され,シュヴァビッシュ・グムント地裁で判決を受け,ある者は監獄に行く.1983年のパーシング配備以来,1,096件の有罪評決・判決が出ている.しかし人々は来るのを止めない.

われわれ判事たちがムートランゲンに来るには1年以上を要した.その考えはもっと長く心にあったが,しかしわれわれの仲間が違法行為だと言うことに一歩踏み出すのは困難だった.われわれは恐れていた.しかし,それらのミサイルこそ恐れるべきであり,恐れるべきものが刑事裁判や何らかの懲罰ではないことをわれわれは知っていた.

1985年11月に,われわれの行動団体「平和のための判事と検察官」が,それはドイツの判事と検察官およそ1,000人のゆるやかな連合だが,カッセル・ヘシアで2回目の会議を開いた.われわれはアメリカのプラウシェアズ団体のフィル・ベリガンを講師として招いた.彼はわれわれに行動を起こすよう促した.

そうしてこのアイデア,判事によるムートランゲン封鎖は実行に移された.われわれの同僚の中にはこれ以前に平穏な封鎖行動に参加した者はいたが,判事の地位を明示しての封鎖は違った意味合いを持つだろう.そこで判事の一人はこの封鎖に参加する可能性のある250人の判事に,われわれはムートランゲンに行くべきだと書いた手紙を送った.そして20名で1987年1月12日と期日を決めた.それはドイツ連邦の選挙キャンペーンの最盛期であった.

その朝はマイナス20度のひどい寒さで,ムートランゲン基地に通じる小道を歩いてきたおよそ30人程は,しっかり防寒着を着込んでいた.われわれは冷静であると同時に興奮してもいた.われわれの一団は,2名の女性を含む20人の判事と,行動を記録するためにカメラを持った同僚たち,それに何人かの報道関係者からなっていた.

われわれは道路を封鎖する横断幕を広げた.そのうちの一つには,腕に法律書を抱え,ミサイルを蹴飛ばす判事のマンガが書かれていた.そこには「人民の名において:こいつらを追い出せ!」とあった.(「人民の名において」は法廷での評決の冒頭に書かれる決まり文句である.)

最初の軍のトラックが来たとき,われわれは未だ座り込んではいなかったが,われわれの間を割りこんで通ることが出来なかった.二人の兵士(service men)がわれわれの目の前にただ止まって,退屈そうに新聞を読み始めた.彼らはこのような妨害には慣れていたのだ.さらにたくさんの車が来て,我慢づよく列を作っていた.われわれはピースソングを歌い始め,体が暖まるように歩き回った.1時間後に,最初の警察の車が到着した.一人の警官が出てきて,われわれを眺め回し,何も言わずに車に戻って走り去って行った.

1時間半後,バス2台を含む警察車両の全部が到着した.およそ20名の警察官が出て来て,ぎこちない笑みを浮かべてわれわれの目の前に立った.拡声器の付いた警察車両が到着し,責任者が次のようにわれわれに告げた.彼は,ムートランゲンの町の地元当局はわれわれの集会の解散命令を出したと述べた.われわれが直ちに道路を空けなければ,警察がそうさせる.後者の場合は,警察行動の費用をわれわれが負担しなければならない.道路に居座ることは暴力的な妨害行為であり,ドイツ刑法204節によって罰せられる.次の警告は5分後で,現在時刻は午前10時52分である.

午前11時7分きっかりに,警察はわれわれをバスに連行し始めた.彼らはフレンドリーで冷静かつ丁重だった.われわれは写真を撮られ,あるいは身分証を取り上げられ,警察署に連れて行かれた.そこで警察は,待機している米兵に紙切れを渡した.それは何だと訊くと,警察官は「これは裁判のために重要なものです.兵士は,かれらがあなた方の道路封鎖を物理的な強制と感じたことを確認しなければならないのです.過去に,兵士が「別に気にならなかった」と証言したことがありました.そうすると有罪評決が難しいのです.」

「そうなんですか?」とわれわれは言った.

彼は,われわれは本当に判事なのか知りたいと言った.警察は最初それが信じられなかったため,逮捕までにこれほど長い時間がかかったのだ.しかし彼らは最終的に22名の市民と,20人の判事を逮捕した.逮捕者の中には,シュツットガルトからムートランゲンに運んでくれたバスの運転手もいた.彼は自発的にわれわれに連帯し共に座り込んだ.またその中には,ドイツ・プラウシェアズのヴォルフガング・シュテルンシュタインもいたが,彼はわずか一月前に空軍基地に秘密裏の二度目の侵入をして,パーシング発射台を破壊するという個人的な非武器化の仕事をしていた.彼はサボタージュのかどで起訴され,この夏の公判を待っている.

多くのラジオ局がわれわれの行動を報道した.夕方のテレビニュースはわれわれの逮捕を全国版で伝え,翌日の新聞はこの記事でいっぱいだった.いくつかの保守的な新聞は,われわれを解任するよう要求した.リベラルな新聞でさえ,判事としての権威の乱用だと述べた.彼らは,政治問題に関わらないというわれわれの義務に違反しており,中立性を保べきだと言った.彼らは,われわれが偏っていると言った.確かにそのとおりだ.われわれは,戦争と不正義ではなく,平和と正義の側に立つのだから.

地検(a local prosecution board)はわれわれに対する刑事告発を行った.懲罰措置は刑事事件が決着するまで保留された.封鎖に参加した5人の刑事裁判所判事は現在もその仕事をしている.

われわれの封鎖に対する公衆の議論は今なお盛んである.われわれはたくさんのラジオ・インタビューを受け,新聞紙面で,大学で,学校で,そして法律家の団体での議論に関わった.

注目すべきことがある.シュヴァビッシュ・グムントの法廷での1096件の有罪評決の後では初めての無罪の評決が,われわれの封鎖の4日後に7名に対して出された.判事は,抗議の背景にある実質的な(existential)問題に鑑みて,被告らの行為において何ら卑しむべきものは見られない,と述べた.彼は見解を変え,これからの裁判においてすべての封鎖行動の実施者に無罪判決を出すだろう.

われわれは多数の支持の手紙を受取っている.そのうちの一つは,インゲ・アイヒャー・ショルからのものだ.彼女は,白バラ運動でヒトラーのファシズムに抵抗し,ドイツの判事によって死刑を宣告され,執行されたソフィー・ショルの姉である.ただこの一つの手紙だけでも,われわれの封鎖は実行に価するものだった.
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