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しんぶん赤旗11月5日の論説「憲法運動は無差別テロ支持勢力にどういう態度をとるべきか」について [社会]

しんぶん赤旗11月5日の論説「憲法運動は無差別テロ支持勢力にどういう態度をとるべきか」について
     (Ver.0.91)
原文
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-11-05/2005110504_01_1.html

(十分整理された文章とは言えませんが,速さを優先します.1週間ほどは改訂を続けます.)

ウェブサイトに完成版を掲載しました.
護憲運動の分断が心配--赤旗11月5日付け論説について
http://ad9.org/pegasus/peace/collaboration.html 1401577.gifリンク修正,2015.6


この論説は,一見当然のことを言っていいるようにも思えるが,バランスと配慮を欠いた文章と言わざるを得ない.

まず文章の性格が不明である.単なる報道ではなく,ある主張が主な内容であるにも関わらず,無署名となっている.「社説」に近いもの,つまりこの新聞の発行者である党中央委員会の見解ということになろう.しかし党中央委員会声明というほどの正式の文書でもない.この曖昧さは好ましくない.

この論説は,革マル派,中核派を批判の対象としており,これらの集団を「無差別テロ支持勢力」とし,護憲運動からの排除を求めている.

まず,護憲運動に限らず,何らかの行動への参加「資格」の適否は,アプリオリにではなく,運動や団体の行動目的や行動方法に即して判断しなければならないということが重要だ.単なる集会や討論会なら,会の進行を乱さない限りだれでも「有資格」だが,何らかの直接行動(もちろん非暴力)を伴うとなると,非暴力を貫けるかどうかという事前判断が重要になる,という具合にである.この文章は全面的,かつ無条件の排除を求めているかのように読める.

次に「資格審査」のやり方の問題である.この評論が述べるように,上のように何らかの具体的な行動形態を前提とした場合,そこにはだれでも受け入れていいというわけには行かないこともあるだろう.しかし具体的にどのように「資格審査」をするのかということになると,非常に難しい問題であることが分かる.仮にこれら二派の「出入り禁止処分」の合意が得られたとしてもあまり意味はない.というのは,これらの名前を名乗って団体参加を求めてくることはほとんどないからである.個々の団体名について「審査」することになろうが,もちろん「評価機関」があるわけでもないので,自分たちで判断することになるが,ここで重要なことは,だれも自分の判断を押しつけてはならず,合意によらなければならないということと,「予防的排除」をしてはならず,実際の行動を見ながら,構成員の経験の共有による,いわば学習しながらの判断でなければならないということが重要だ.そうしないと,仮に「正しい」排除であったとしても,構成員に不満や不信が残るのである.これはもう数十年来の経験であろう.(参考までに,国立大学独法化問題で取った手法は次にあります.http://ad9.org/pegasus/znet/approv.html1401577.gifリンク修正,2015.6

また,「テロ」にシンパシーを持ったりしていると言うだけで排除するということになると,問題が起きるのも明らかだ.例えば,自民党や公明党など与党は,アメリカによる最も大規模な無差別テロ,すなわちアフガン戦争やイラク戦争を支持しているので,「無差別テロ支持勢力」と認定せざるを得ない.そうすると,もしこれらの政党の末端の一部や個々の党員が護憲運動に加わりたいと申し出た場合も「排除」しなければならなくなる.しかし実際はこれらは歓迎すべきことのはずだ.

つまり,実際の行動ではなく,所属団体や,その「考え」や主張だけで判断するのはきわめて問題だと言うことだ.あたかも,食い止められている「共謀罪」の自主実施のようなことになってしまう.

次にこの文章が「配慮を欠く」と思う理由は,この文章のいわば副作用に関することだ.共産党は野党であるとはいえ,党員はもちろん支持者にも大きな影響力を持つという意味で,一種の政治権力であることは間違いない.また,「永久野党」を宣言するのでない限り,潜在的な国家権力でもあるのだ.従って特定のグループを批判・非難する場合には,ある「節度」が必要だ.それは,自らが権力を握った場合の弾圧を連想されてしまうからである.非難が人格的非難の性格を帯びたりしてはならず,団体であれば,これには適切な言葉がないが,「団体格的非難」あるいは「法人格的非難」とでも言うべきか,つまり団体としての存在そのものや,団体としての言論・表現の自由まで敵視しているようなニュアンスを持つ非難は謹まなければならないということだ.団体の方針や発言だけをもって犯罪者扱いや犯罪組織扱いをしているように受け取られるのは避けなければならない.

このことは私の体験から痛切に感じることである.東北大学や山形大学の学生寮の廃寮問題では,運動に関わっている学生らが「新左翼系らしい」という「情報」だけで,これらの大学で行われた,とんでもない不法行為や権利侵害が見逃されている.しかもその「情報」というのが決してあからさまに語られることはなく,「耳打ち」で伝えられるだけである.極めて不明朗で,アカウンタビリティーの対極にある事態である.これが,民主主義と人権のチャンピオンであるべき共産党を含む左翼・リベラルと呼ぶべき人々の間で起こっている事態なのである.

ある大学の知り合いから,「X寮はY派の巣窟になっているから,廃寮反対運動の支援など止めた方がいい」と言われたことがある.これは,全く学生には気の毒な喩えとはいえ分かりやすくするために使うのだが,「フセインは独裁者だから戦争もやむを得ない」と言うのと同じだ.人権や団結権は普遍的なもので,何派には許されるが何派には認められない,というようなことはない.民主主義が口先だけのものかどうかが試されているのだが,その自覚のない人が多い.

これら二つの寮問題とそれにまつわる裁判事件ついて,組合系など主流派の左翼やリベラルなどの人々に繰り返し支援を訴えたが,なかなかこれが難しいのである.原因が過去の「ゲバルト」時代の記憶だけとは思われない.

この赤旗の文章も,これら二団体の存在そのものを許さないかのようなニュアンスを持っており,党員や支持者に上で述べたような悪い影響を与えるのではないかと危惧する.

最後に,この文章での「テロ」という言葉の使い方についての問題を感じる.革マル派や中核派が「テロ」を支持していることは非難されるべきだが,ブッシュ流の「テロとの戦い」というレトリックで,あるいはその延長線上の言説を使う結果になっているという問題だ.アメリカが行う無差別大量殺戮に対しては「戦争」という,あまりにも「普通名詞」となっているため,いわば中立的で刺激性の少ない言葉を使い,同様に非難されるべ行為であるが,対抗する弱者の側の,同じく戦争行為の延長とも言える無差別殺人にたいしては,「テロ」という,より生々しい印象を与える言葉を使う非対称さがある.いずれも等しく重大で卑劣な犯罪であるという「対称性」が覆い隠されてしまうのである.つまり,「テロとの戦い」という心理戦にはめ込まれる危険を助長することになりかねない.「テロ」という言葉を使うのなら,両者に対して等しく使うべきである.

(08年7月21日現在までのこの記事の閲覧は 1,534 回です.)
2023/2/21追記:同様の内容を2016年の単行本の一節に書きました。
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高武淳夫

今、私の地域の九条の会には、なぜか連合に所属する労組系が加わっていない。元・社会党系の町議員も参加していない。同根の意識が底流にあるのではないか。重要な指摘だと思う。
by 高武淳夫 (2005-11-08 10:39) 

s-mituru

指摘された問題点は理解できます。私が問題として感じていることは、彼らが暴力容認の激しい主張を声高に叫び、集会があれば反共宣伝をくり返すことによって、平和と民主主義の運動が広がることを妨害しているということです。昔のように内ゲバなどの反社会的行動をしなければ、また反共宣伝に明け暮れることなく一致点での共同を広げるという立場であれば、素顔で堂々と集会に参加すべきです。憲法改悪反対のたたかいは、きわめて政治的な課題です。権力側が、暴力的な集団を利用して私たちの運動に弾圧を加えてくることには十分な警戒が必要でしょう。
by s-mituru (2005-11-09 01:26) 

yamamoto

中核・革マルの批判をしていないので,上の記事もまた,「バランスを欠いた」文章になったかも知れません.問題は多岐にわたりますので,また書きたいと思います.
by yamamoto (2005-11-09 09:52) 

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